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2017年6月27日 (火)

武士道とは、卑怯なふるまいをせずに、正々堂々と正しきを行う道です

いま世界中で、世界戦Ⅱ後の秩序への挑戦がなされ、新たな秩序への模索がなされるような出来事が起こっています。

思えば、日清、日露の戦いは、朝鮮が原因で起こった戦争でした。
世界戦2も、蒋介石が米国を支那に引き込んだのがその原因でした。

このような歴史を千年に渡って俯瞰できる国は日本しかないことが、ようやく多くの日本人に理解されるようになってきています。

ねずさんが、その千年の歴史を俯瞰しておられるのでお目に掛けたいと思います。

それにしても、すごい話です。

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集qazx

推古天皇の時代に天才政治家である聖徳太子が摂政となりました。

聖徳太子は604年に「十七条憲法」を制定し、そこに

第1条 以和為貴(和を以(も)って貴(とうと)しとなせ)

第11条 明察功過(功過(こうか)を明察せよ)

と記しました。

そして飛鳥、奈良、平安のおよそ600年間の統治は、十七条憲法の基礎の上になされたのです。

ーー

「和」を大切にするということは、争いをなくそうということです。

と申しましても、人が集まれば、常に対立はあります。

対立が起こったとき、現代の欧米の対処法は、まず「話し合い」、それがだめなら「戦争」で解決するしかありません。

二者択一の、これが現代国際政治の実情です。

ーー

それでは、日本は、戦争せずに、どのようにして、人々の対立を解決したのでしょうか。

その方法が、「功過を明察せよ」だったのです。

人が大勢いれば、それぞれの利害が錯綜して必ず問題が起きます。

けれど、利害が対立を生み、話し合ってもまとまらず、最後は喧嘩になって殺し合うというのは、下の下です。

そこで喧嘩になり殺し合う前に、「明察せよ」と説かれたのです。

ーー

「功過」と言うのは、功(良いこと)と、過(わざわい、良くないこと)を意味します。

それを「明察しなさい」そして対処しなさい、ということです。

日頃から例えば、火の功(有用性)に対して、火の過(火事)に備えて、消防署をおくことです。

仁徳天皇は、民のかまどの煙で、民衆の生活の窮乏を察せられています。

ーー

現代社会は法治国家の名のもとに、悪人をあらかじめ同定し、彼らが犯罪を犯さないようにすることはできません。

「犯罪が起きてから犯人を探し」ます。

しかしそれでは、被害者が出てしまうことに成り、民に被害が及んでしまう。

ーー

私達の祖先は、民が苦しまないように、あらかじめ対策を講じておきなさいという「明察功過」を守ってきたのです。

そしてその「察する」能力を、鍛えるために、楽しんだのが和歌です。

作者は、和歌では、真意を直接書かない。

読者は、書かれていることから作者の真意を読み取らなければならない。

つまり、「明察」する訓練になる。

ーー

飛鳥奈良平安の貴族たちは、和歌ばかり詠んでいたのではありません。

そうではないのです。

仕事をするうえで、「察する」ということが大事にされたからこそ、和歌を学んだし、自らも歌を詠んだのです。

和歌とは、「明察する」技術であり文化であり芸術です。

ーー

こうして「明察する」文化に基づいた飛鳥、奈良、平安の600年は、平和と安定と繁栄をもたらしました。

すべての民を天皇の「おおみたから」とし、政治権力者は天皇によって親任されるものでした。

これにより、民衆は権力者の私物ではなくなり、無用な使役を受けることがなくなりました。

つまりわたしたちの国ではすべての民衆が、天皇という存在によって権力者からの自由を与えられていたのです。

ーー

もちろん、政争や権力争いはありました。

能因法師(のういんほうし)は、

 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
 竜田の川の錦なりけり

と詠みました。

神々が降臨する「三室の山」に「嵐吹く」とは、神々の戦い、つまり中央政権内部の政争を意味します。

けれどそれさえもまるで「竜田の川の錦」だと詠んでいるのです。

ーー

支那では、現にいま習近平政権内部で起こっているように政争は殺し合いです。

しかも近代になるまでは、支那の王たちは、直接刃を交えるのではなくて、民衆を兵として動員して戦わせたのです。

ーー

わが国では、十七条憲法第三条に「承詔必謹(詔(みことのり)を受けては必ず謹しめ)」と書かれています。

これは、天皇が、中立の立場に立たれており、天皇お言葉に対しては、争そう両者は、素直に耳を傾けるべきだというのです。

天皇が間に立たれることによって、争そう両者が殺し合いにまで発展することを防いできたことが分かります。

ーー

こうして平安中期には、清少納言、紫式部、和泉式部など、女流歌人達が光り輝く時代を迎えています。

女性達が輝く社会というのは、平和な社会でなければありえません。

11世紀という、中世において、女性達がこれほどまでに深遠な文学を残した民族ないし国家というのは、世界中、どこを探したって見当たりません。

そういう国を、私達の祖先は、築き上げたのです。

ーー

ところがこうした600年の平和と繁栄の時代は、12世紀の中頃に、終わりを迎えます。

天皇経験者である崇徳院が、武力によって都を追われ讃岐に流されるという事件が出来(しゅったい)したのです。

保元の乱(1156)です。

そしてこの事件をきっかけに、急速に武家が勢力を増していきます。

1167年には、平治の乱を勝ち抜いた平清盛が太政大臣に就任する。

ところがその平氏も壇ノ浦で滅ぼされ(1185)、滅ぼした源義経も頼朝によって倒れる(1189)。

1192年には、京都から遠く離れた鎌倉に鎌倉幕府が築かれます。

ーー

この鎌倉幕府も、二代将軍源頼家が、頼朝普代の家臣たちを片端から殺し、三代将軍源実朝の時代になって、都との政治の融合化が図られる。

その実朝も鎌倉の鶴が岡八幡宮で源公暁によって刺殺されてしまう。

ーー

600年の平和が破られ、騒乱の世になって、藤原定家たちは、なんとかしてもとの平和な社会を取り戻そうとして、まさに血を吐くような努力の日々を送ります。

けれども、まるで手ですくった砂が、手のひらの隙間からこぼれていくように、時代がどんどん社会を変えていく。

式子内親王は、その悲しみを詠んでいます。

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
 忍ぶることの弱りもぞする

「玉の緒」は、玉(精神)としい(肉体)を結んでいる緒、これが絶えると「玉」と「しい」がバラバラになり、死んでしまう。

つまり式子内親王は、平和を望むあまり「自分の命がどうなっても構いません」と詠んでいるのです。

ーー

式子内親王は1201年に薨去(こうきょ)され、藤原定家も1241年には亡くなりました。

そして世の中は、武家の時代へと移ります。

「明察する」ことで争いを防いできた社会から、武士が武力を行使する時代へと変化したのです。

和歌(明察)の天才、藤原定家も、武家社会への変化には逆らいようがなかったのです。

ーー

ところがです。

定家が亡くなった、33年後に、大事件「元寇」が起きるのです。

ここでもし、武力を持たない貴族政治が継続していたら、日本は元の兵たちによって蹂躙されていたはずです。

このときに日本にやってきたのは「モンゴル族となった高麗人と、モンゴルの支配下に入った高麗人」たちなのです。

「モンゴル族となった高麗人」というのは、モンゴルが高麗を攻略した際に、高麗王は、真っ先に江華島に逃げてしまった。

無政府状態となった半島内では、三別抄という強盗団が暴れ回りました。

ちなみに、宮脇淳子先生によりますと、大陸や半島では「軍とヤクザと暴徒」は同じものです。

その時・治安を維持したのが、モンゴル兵であった。

その結果、高麗人の多く(一割)が、モンゴル兵について、いまの通化市あたりに移住してしまった。

そしてそこで農業や牧畜をしながら、モンゴル人となる、これが「モンゴル族となった高麗人」なのです。

ーー

そして元寇では、この「モンゴル族となった高麗人」たちが、高麗人たちを兵にして、壱岐、対馬を襲撃し、島民を皆殺しにし、食料にしたうえで、博多の港にやってきたのです。

彼らは人間の肉を食料にする連中だったのです。

このとき、もし日本が貴族政権のままだったら、どうなっていたことでしょう。

高麗人兵らは、上下関係と支配と隷属、文字通り弱肉強食の人食い族です。

ーー

その頃の日本は、保元の乱以降、すでに100年に及ぶ内乱の世を経験し、さらには源平合戦では、数十万の兵を動かしていたのです。

用兵から兵站、褒賞に至るまで、すでに完全に完璧に戦える体制を確立していました。

元寇と言えども、これら戦乱の世を勝ち抜いてきた鎌倉武士に勝てるはずはなく、2度にわたり、完敗し敗退しています。

ーー

日本は保元の乱、いやそれ以前の前九年の役、後三年の役から、十二分に当時の世界に通用するだけの軍事経験を積んできていたのです。

しかも、国内の「民のために治世がある」というわが国の大原則を崩さずにです。

後世に生きる私達は、千年前の出来事については、まさに「神々の目線」で歴史を俯瞰(ふかん)することができます。

そういう眼で時代の大きな流れを見ると、私にはなんだか八百万の神々の大いなるご意思が働いたとしか思えないのです。

ーー

そしてこのことは、続く時代においても確信できます。

ーー

元寇を撃退したのは鎌倉幕府ですが、その鎌倉幕府は結局滅んでしまいます。

そして室町幕府ができる。

ところが室町幕府は、正長の土一揆、山城の国一揆などの民衆の反乱が絶えず、ついには1467年には応仁の乱が起きてしまいます。

そしてこのあと日本は、群雄割拠の戦国時代となります。

ーー

1543年、鉄砲(種子島)が日本に伝えられます。

この10年前、1533年には、スペインが、たった150丁の鉄砲でインカ帝国を滅ぼしています。

この60年前、1482年には、アフリカのコンゴ王国にポルトガルが入り、1568年には、完全にポルトガルの植民地にされ、コンゴ人全員が奴隷にされています。

アフリカに奴隷国が誕生した、同じ時代に、インカ帝国が滅ぼされ、植民地化の波は東洋にも及んできていたのです。

ーー

種子島が日本にやってきたとき、日本は群雄割拠の戦国時代でした。

ここで確認しておかなければならないのは、当時の大名も、江戸時代の大名も、領主として君臨していましたが、持っているのは領地だけです。

民衆は、あくまでも「天子様の民」、つまり天皇のおおみたからであり続けたし、そのように認識されたのが日本です。

ーー

西洋や支那の皇帝や王や貴族は、領土だけでなく領民も私物化し、モノとして扱っていました。

ーー

そうして世界の有色人種は、欧米の植民地(奴隷)となっていったのです。

ところが日本は、信長や秀吉の時代には、世界最大の鉄砲大国、つまり世界最強の軍事大国になっていました。

そしてその軍事大国のまま、日本は江戸時代のはじめに、キリシタンが日本人を奴隷として売り飛ばしていたことに激怒し、鎖国しています。

鎖国した徳川270年の治世の中で、何がおきたかといえば、勝てば良いだけだった戦国武者が、武士道を重んずる統治者へと進化していたのです。

ーー

そして1853年、ペリーが浦賀にやってくる。

日本は開国し、戊辰戦争を経て、1868年、統一政府である明治政府ができあがります。

全国が三百諸侯によってバラバラに統治されていたものが、ひとつの政府のもとに、すべての国民が結集するという国民国家が、作られたのです。

そしてそのときに、明治人の精神として、身分の上下なく徹底されたのが、まさに武士道でした。

武士道とは、卑怯なふるまいをせずに、正々堂々と正しきを行う道です。

ーー

そして日本は、ただ一国、植民地の解放のために立ち上がり、3年8か月に及ぶ大戦の末、ついには世界から植民地を無くしてしまった。

ーー

歴史を大きく俯瞰してみると、日本は、なにか大きな神々の御意思のもとにある国としか見ようがありません。

終戦後も、日本中が焼け野原となったのに、わずか19年後の1964(昭和39年)年には、独自でオリンピックを開催しています。

ーー

現世界は、英国が世界の金融を支配下におさめ、その下で米国がかつての貴族のように、世界の軍事覇権を担っています。

その下には、反目する貴族(ロシア、フランス、支那)があり、その他の各国はこれら貴族に支配される民という構造になっています。

世界は21世紀になっていますが、そういう意味では人類社会は中世も現代もあまり大差ありません。

ーー

その中に、二カ国だけ、王からも貴族からも、民からも「憎むべき敵」とされている国があります。

それが「ドイツ」と「日本」です。

とにかく現在の世界秩序というのは、そういう構造になっています

連合国(国連)内では、今も日本は敵国なのです。

ーー

戦後の日本は、化け物のような扱いをされて、一切の武力を封じられた。

しかも、占領軍(連合国軍)により支配された日本メディアは、いまだに連合国側に立って情報を支配しているのです。

例えば、日本には米軍基地があり、米軍は、その基地から朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争などに兵を送り出しています。

その米軍基地の様々な経費は、ほぼ全額を日本が負担しています。

世界の目から見れば、あきらかに日本はすでに現実に集団的自衛権を行使しているし、外国への攻撃もしているわけです。

ところが肝心の日本人には、その現状が知らされていない。

ーー

また、憲法9条は自衛権を否定しているのではありません。

従って核武装についても、岸内閣のときに、日本は核武装可能であるという公式答弁がなされています。

それは昭和32年(1957)年5月7日の参議院予算委員会でのことでした。

当時の岸信介首相が、「核兵器という名前がつくだけでみなが憲法違反であるというが、そうした憲法解釈は正しくない」と明確に述べているのです。

また昭和43年(1968)2月10日には、同じく参議院予算委員会で、高辻内閣法制局長官が、次のように述べているのです。

「核兵器はもってはならず、通常兵器はもっても良いと憲法に規定されていない。憲法には戦力を保有しないという規定がある。しかし現在、自衛隊法にもとづいて自衛隊が存在している。自衛隊が憲法上容認されるという解釈、まさにそれが兵器にたいする解釈でもある。すなわち核兵器とその他の兵器は、憲法上では何の区別もない」

さらに昭和53(1978)年3月2日には、衆議院外務委員会で園田外相が、「憲法の規定自体に拘束されて日本が核兵器を保有できないとするものではない」と明確に述べています。

近いところでも平成10(1998)年6月に、大森政輔内閣法制局長官が、「核兵器の使用も、わが国を防衛するための必要最小限にとどまるならば、可能ということに論理的になろうかと考える」と答弁しています。

ーー

要するに集団的自衛権にしても、核武装にしても、とっくに答えは出ているのです。

現実論としても日本に米軍基地があり、そこに核兵器がある以上、日本はすでに「集団的自衛権の枠内で核武装している」わけです。

にもかかわらず、日本メディアは、「集団的自衛権を認めるべきか否か、核武装を認めるべきか否か」と、あいも変わらず見当違いな意味のない議論を繰り返しています。

つまり、憲法9条、集団的自衛権、核武装については、日本メディアが、情報操作することによって、国民を「あきめくら」状態にしているのです。

ーー

ただ、そうした言語空間を奪われた状況の中で、日本人は、アニメやマンガの中で日本の常識を、つまり日本に古くからある概念を描いたのです。

そして気がつけば「人として対等」という、これまで世界になかった新しい概念を、全世界に広めていた。

北斗の拳やワンピースは、全世界で10億部売れてたそうです。
世界の7人にひとりが日本的な世界観を知ってしまったのです。

ーー

日本が、世界戦Ⅱに敗れたことで、「人間は対等」という文化が、世界に広がりました。

一部の特権者が、自分の特権を守るために、武力を用いることが、常識になっているのが、21世紀初頭の世界です。

おそらく神々は、それをいま打ち破ろうとされている。
そこでも大きなはらたきをするのは、日本です。

それが世界の大きな潮流だと、私は思っているのです。

ーー

ところが、世界が大きく変わろうとしているときに、その変化が読めない国があるのです。

それが南北朝鮮であり、共産支那です。

朝鮮は、明治時代から、いまとまったく同じ調子で、権力争いを繰り返し、日本に飛び火させた。

日清戦争も、日露戦争も、もとをたどせば朝鮮人たちが、どちらの大国に付くかで争い、日本を戦争に巻き込んだのです。

日本は、こんどこそ、朝鮮人の権力争いには絶対に介入しないようにしなければなりません。

新しい世界秩序は、すでに動き出しています。

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コメント

>また、憲法9条は自衛権を否定しているのではありません。

韓国の初代大統領イ・スンマンは極端な反日思想の持ち主でした。

日本占領軍は、戦争責任を日本に押し付ける教育を、在日・反日勢力の協力を得て行います。

朝鮮人は日本人を好きなようにいたぶることが出来ました。

ーー

1952(昭和27)年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定して、そのライン内に竹島を取り込みます。

1951年9月8日、日本は連合国各国との平和条約であるサンフランシスコ条約を締結します。

この条約は、1952年4月28日発効し、連合国による占領は終わり、日本は、主権を回復します。

イ・スンマンの行為は、日本が主権をとりもどす前を見計らってなされた、まことに朝鮮人らしい卑怯な行為だったと言えるでしょう。

ーー

イ・スンマンは、日本の漁船を拿捕し、乗組員に拷問を加えた結果、多数の人々が死傷しました。

ーー

この朝鮮人の侵略に備えるために、警察予備隊、これを保安隊に改編し、サンフランシスコ条約締結時には武装集団・自衛隊が作られた。

ーー

イ・スンマンは、日本の「国軍不保持、交戦権放棄」を試したのです。

そして竹島を無抵抗のままに掠奪できた。

これに味を占めたイ・スンマンが対馬へ軍を動かした時、手薄になった南鮮国内を北朝鮮に突かれます。

それが1950年に起こった朝鮮戦争でした。

ーー

日本は、敗戦で工業力の8割を失っていましたので、政治家たちは、経済的復興を何よりも優先しました。

国民を食わせなければならなかった。

そのために、日本の政治家らは、「国軍不保持、交戦権放棄」という主権国家とはいえないような憲法を利用しています。

つまり、憲法を盾に朝鮮戦争への参戦を拒否した。

ーー

これにより、日本人は、国内の復興事業に専念することができたのでした。

これが日本を大復興させることに成ります。

ーー

もちろん、魚雷の掃海は朝鮮人には無理でしたので旧海軍が犠牲者をだしながら行っています。

1953年にスターリンが死ぬと朝鮮戦争は休戦に成ります。

ーー

その後も1961年から米国がベトナム戦争に深く介入するのですが、日本政府は、憲法を盾に参戦を拒むのです。

こうして、日本は米国が強制した憲法をうまく利用したと言えるでありましょう。

ーー

しかも、自衛権はあるとして、着々と自衛力の強化を図っています。

そして安倍政権になってから、バラバラだった陸海空の自衛力に対し統合本部を設けて再編しているのです。

支那、南北朝鮮の軍事的脅威を理由に自衛力強化に余念がない状況です。

いまや堂々と集団的自衛権と日米軍事同盟を主張している。

反日メディアは日本の政治家が愚かであることを望んでいるようですが、そうではないということに成ります。

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