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2017年6月24日 (土)

私(円仁)は、書類を提出して還俗したうえで、日本に帰りたいと請願した

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

円仁(えんにん、794-864)『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』

平安時代の遣唐使・円仁が唐での体験を綴った本です。

円仁は、栃木県出身の僧で、後年、比叡山延暦寺第三代天台座主の慈覚大師(じかくだいし)になっています。

『入唐求法巡礼行記』は、世界的に、僧正玄奘(げんじよう)の『大唐西域記』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』と並んで、中世東アジアの三大旅行記とされているのです。

そこには、承和5(838)年から、承和14(847)年の唐の状態が記されている。

当時の皇帝は武宗(ぶそう)で、道教に入れ込んで、仏教を弾圧しています。

円仁は、唐滞在中に、百回近くにわたって日本への帰国願いを出しています。

が受理されず、ようやく外国人僧追放令によって帰国しています。

ーー

この書は、当時の唐の状況を客観的に描写しており、世界の研究者から、高く評価されているのです。

筑摩書房の古典日本文学全集〈第15〉仏教文学集、入唐求法巡礼行記(漢文、堀一郎訳)をもとに、ねずが、現代語訳にしました。

ーー前略(以下ねず訳)

討伐軍は、州の境界線で、反乱軍の激しい抵抗にあって膠着状態となり、多くの日数が費やされています。

皇帝が「軍に反乱軍を征討する能力が無いからではないかとあやしんでいる」らしいというのです。

それを知った征討軍は、戦線付近の牛飼いや農夫たちを捕まえて、これを反乱軍の捕虜と偽って、都に送りました。

皇帝は、その捕虜たちを処刑するように命じ、わざわざ処刑の為の儀礼刀を下賜(かし)された。

捕虜たちは、街頭で三段に斬られ、あるいは左右両軍の兵馬が、彼らを取り囲んで撲殺しました。

前線からは、続々と捕虜たちが送られて来るようになり、兵馬は休みなく往来し、市街で殺された死骸は道路に満ち、血は流れて土を濡らし泥となりました。

ーー

これを見物する人も道にあふれました。
皇帝もときどき見物にやって来ます。

人々は、「送らされてくるのは叛乱軍ではなくて、近隣の牛飼いや農民ばかり、罪もないのに叛徒に仕立てあげられて捕らえられて来たものだ、皇帝の軍隊はまだ州の境界線を突破できず、皇帝に戦果の上がらないのを怪しまれないようにするために、むやみと罪もない人民を捕まえては都に送っているのだ」と、言っています。

捕虜が偽者であることは、もう誰もが知ることなのです。

にもかかわらず、そんな捕虜たちを、軍の兵士どもは、斬り殺しては、その眼肉を割いて食べています。

だから人々は、いずれも今年はなんと不吉な年かと言っています。

ーー

山西省の太原府の三千の軍は、三年間ウイグルとの国境守備に任じられ、ようやく今年、ウイグルを破って凱旋してきました。ところが太原府に帰ってまだ日も経たないうちに、節度使はこれを再び四川方面の叛乱軍討伐に出発させようとしました。

将兵たちは「三年もウイグルと戦って苦しい思いをし、疲れきって帰国してきたばかりです。故郷に帰って、まだ父母にも妻子にも会っていません。どうか他の軍隊を派遣していただきたい」と固辞しました。

ところが節度使は「皇帝の命令である」と聞き入れません。

このため三千の軍が暴発して太原府城に押し寄せ、節度使を攻撃しました。節度使は、この事態を皇帝に報告しました。

都から尋問使がやってきました。調査の結果、尋問使たちは、「この者らは、ウイグルを討伐した功績をあげており、言い分はもっともである。当然、死罪にすべきではない」と、詳しく理由書をつけて上奏しました。

けれどもその上奏は聞き入れられず、三千人は東市の北街の塚のほとりで全員、斬り殺されました。

ーー略

9月にはいって、四川方面の叛乱軍がようやく大敗しました。叛乱軍の軍団長らは、捕虜として都に護送されました。彼らへの処刑は67回に及びました。

後に叛乱軍の首魁の劉従簡(るうじゅうかん)の首が長安の都に送られて来ました。都では、この首を三叉の槍の頭に差し抜き、三丈あまり(10m弱)の竿(さお)の先に名前をしるして、東西の市(いち)を巡回して、内裏に行進しました。

皇帝は銀台門の楼上に坐して、この行列を見て大いに笑いました。その後数十日のうちに、叛乱者たちの財産や宝物、家具などの一切を政府に没収し、毎回7〜8台の金で装飾した車が、これらを満載して都に入り、宮廷の倉庫に納めました。

ーー略

8月に太后(たいこう)が薨去(こうきょ)されました。姓は郭(かく)で、太和皇后といいます。
太后は、仏教をとても篤(あつ)く信仰していました。

皇帝は道教を信仰しています。その皇帝から、僧侶や尼僧を淘汰せよという条例が出るたびに、いつも皇帝に諫止(かんし)していたのが太后でした。皇帝は、そんな太后を、薬酒をすすめて毒殺してしまいました。

また義陽殿(ぎようでん)におわす皇后は(皇帝の実母)たいへんな美貌の持ち主でした。皇帝は、その母を後宮に召し入れて妃(きさき)にしようとしました。あたりまえのことですが、皇后は拒絶しました。すると皇帝は弓で皇后を射殺してしまいました。

ーー略

道教の道士である趙帰真(ちょうきしん)らは、皇帝に、「仏教はインドで生まれて『不生』を説いているが、『不生』とは、単に死のことである。仏教はまた、さかんに無常や苦、空を説くが、これはまことに奇っ怪な妖説であって、道教にいう無為長生(無駄に長生きしない)の原理を理解していない。老子は、無為自然にあそんで仙人となり神薬を練った。この神薬を飲めば、不老長寿となり、神仙界の一員となることができる。その功力は無限である。そこで願わくば、宮廷内に神仙台を築き給え。身体を練磨して、神仙界にのぼり、九天に逍遥し給え。必ずや陛下の聖寿万歳となり、もって長生きの楽しみを保ち得られることでしょう」と奏上しました。

ーー

皇帝はこの奏上を聞いておおいに喜びました。

ーー

左右の近衛兵に命じて、宮城内に、神仙台として「望仙楼」を築かせました。それは、高さ45メートルの楼閣でした。皇帝は「望仙楼」ができあがることを、とても楽しみにされ、毎日左右の近衛兵三千を動員して土を運ばせ、築造させました。

皇帝は、一刻もはやく完成させたい意向でした。毎日、できあがりを催促されました。左右両軍の近衛兵の団長も、指揮棒をとって監督にあたりました。

ある日、皇帝が視察に赴きました。皇帝は宮内長官に向かって、「あの棒を手にしているのは誰か」と問いました。長官は、「軍団長みずからが築台の指揮をとっています」と答えました。すると皇帝は、「汝、棒を手にして指揮する必要はない。自分で土を担って台を築け」と命じました。

またある日には、「望仙楼」の工事現場に出かけた皇帝は、自ら弓をひいて、何の理由もなく将校のひとりを射殺しました。

ーー略

3月3日、仙台の築造が完成し、皇帝に引き渡しの儀が行われました。その日、皇帝は、仙台に登りました。両軍の司令官や道士たちも、登りました。

その途中、両軍の司令官が、道士の趙帰真に、「今日、仙台の引き渡しが行われますが、あなたがた道士は、不老不死の仙人になれますか?」と問いました。趙帰真は、うなだれたまま、何も答えませんでした。

皇帝は「望仙楼」に七人の道士を招き、神薬を練り、空を飛んで仙人となる術を行わせました。皇帝が「望仙楼」に登った日、皇帝は同行した楽師に、「左近衛師団長を建物から突き落とすように」と命じました。ところが屈強な師団長を前に、楽師はこれができません。

皇帝は、「朕が突き落とせと命じたのに、なぜ命令に従わぬのか」と問いました。楽師は、「軍団長は国家の重臣です。これを故なく突き落とすことなどできません」と答えました。

すると皇帝は怒り、楽師の背中を杖で20回殴りつけました。

ーー

望楼の上で皇帝は、そこにいる道士たちに、「朕は、ここに二度足を運んだが、汝たちにまだひとりも登仙した者がいないのは、どういうわけか」と問いました。

道士らは、「国中に仏教がはびこり、その邪気がたちこめているために登仙になることができないのです」と答えました。

皇帝は、宮城内の僧道奉行に対し、「朕はお主らを必要としない」と宣言しました。そして数日のうちに、国中の僧侶や尼僧で、年齢が50歳以下の者は、すべて強制的に還俗させ、そのまま本籍に返せとの勅令が発せられました。

ーー

実はこれには裏話があります。

皇帝は当初、「仙台を築くために掘った土の穴が極めて深く、人民に恐怖と不安を与えている。朕はこれを埋めたい。ついては仙台の落慶供養の食事会を催すといつわって、近隣の僧侶や尼僧をことごとく、無理やりにでも左近衛軍営内に集め、その首を斬り、その死体で穴を埋めよ」と命じたのです。

これにおどろいた卜(ぼく)某が、「僧尼といえども、もともと国家の民です。せめて還俗させて各自生産を営ませれば、国家に利益があがります。穴に追い込むようなことはせず、還俗させて、すぐに地方に帰し、役夫にでもさせればよろしい」と申し上げ、皇帝が「もっともである」とこれを受け入れたために、先の勅命となったのです。

さりとて僧尼たちは、どうしてよいかわからない。

ーー

私(円仁)は、書類を提出して還俗したうえで、日本に帰りたいと請願したのですが、奉行もこれを受け取ったきりでまだ返事がありません・・・。

ーー以下略

話はまだまだ続くのですが、ここまでお読みいただいて、いかがお感じになりましたでしょうか。

責任を伴わない権力というものの恐ろしさが、いやというほど書かれていることにお気づきいただけたのではないかと思います。

ーー

円仁が帰国した47年後の寛平6(894)年、菅原道真は、遣唐使を廃止しました。そしてその13年後の907年に、唐は滅亡しています。

唐の滅亡は、当時の東アジア全体をゆるがす大事件でした。

それは、東アジア秩序の崩壊でもあったし、支那本土内で、大混乱、大虐殺は、周辺国へも多大な影響を与えたのです。

ところが日本は、この唐滅亡の13年前という、絶妙の時期に遣唐使を廃止し、事実上の鎖国をしています。

当時の政治家たちの先見性には、ほんとうに驚かされます。

ーー

支那の場合は、現在に至るも、ずっとウシ(大人、権力者)が国をハク(支配)していたのです。

歴史的に支那ではウシハク(大人支配)が常態化している。

つまり、王朝が代わっても国のウシハク(大人支配)というカタチ(国体)は変わらなかったのです。

支那は、王朝交替毎にその王朝が正統であるという物語を作った。

つまり支那人は、自分たちの神話と歴史(自分たちの言葉で書かれた物語)を失ってしまった。

支那人とは、こうして、自分たちの言葉で書かれた物語を失った人々なのです。

支那人にとっての権力とは、ウシ(大人、権力者)のものでしかなく、自分たちを治める、自分たちによる、自分たちのための権力(政府)など、まったく知らないし、知ろうともしないのです。

ーー

日本では、ウシ(大人)ハク(支配)について、

ウシ(大人)が権力をふるうためには、権威(天皇、オオキミ)による「認証」が必要とされるのと、ウシには「権力を行使した結果責任」があるとされているのです。

これがシラスという統治体系であり、この国体によって、日本は西洋以外のアジアで唯一民衆政治を実現しています。

しかもその民衆政治は「オオキミのシラス」という日本独自の「統治の仕組み」なのです。

(参考文献)
筑摩書房『古典日本文学全集』第15巻・仏教文学集
産経新聞社『国民の歴史』西尾幹二著

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