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2017年5月 3日 (水)

素直に原著を読めば邪馬台国の位置は明らかだ

以前qazxブログで、長浜浩明氏の古代天皇の長すぎる在位についての知見を紹介した。

氏は、日本書記の記載が古事記のそれの倍であることを示し、日本書紀のそれは在位年ではなく春と秋の祭礼の回数であり在位年のおよそ2倍になるとして居られる。

そして、春と秋の回数の方が日本古来から続く在位の示し方だったのだろうとされている。

さて今日は、魏志倭人伝の邪馬台国の位置について、長浜浩明著「日本建国史」アイバス出版より、著者の議論を紹介したい。

ーー

つい最近まで、記紀を否定して敗戦利得を得た人たちが、邪馬台国の位置を巡ってかってな議論をしていた。

確かに「台」は、日本書紀などでは「と」と読んでおり、魏志倭人伝に出てくる台与は「とよ」と読まれている。

ということは邪馬台国は「やまと」国と読める。

それが邪馬台国畿内説の根拠の一つになっている。

著者は、それは、記紀や魏志倭人伝を読ずに、自説を述べているだけだとし、素直に原著を読めば邪馬台国の位置は明らかだと言う。

その議論の一部をお目に掛ける。

ーー

魏志倭人伝には邪馬台国に至る経路が明記してある。

ーー支那・帯方郡より倭に至るには

「海岸に沿って、倭の北岸狗邪韓国に至る」水行7千余里

「始めて海を渡り対馬国に至る」水行千余里

「また海を渡り一大国(壱岐)に至る」水行千余里

「また海を渡り末廬国(松浦、唐津あたり)に至る」水行千余里

「東南・伊都国(糸島)に至る」陸行5百里

「東南、奴国(博多)に至る」陸行百里

「東行、不弥国(三笠川河口あたり)に至る」陸行百里

「南へ、投馬国(大宰府あたり)に至る」水行20日

「南へ、邪馬台国(女王国)に至る」水行10日、陸行1ケ月

ーー

当時、魏志は狗邪韓国は倭国の一部であったとしている。

(このことから朝鮮が明による呼称であるように、韓国が日本による呼称であることが分る)

狗邪韓国の南端から対馬まで1千里、対馬から壱岐まで一千里、また壱岐から松浦まで一千里としている。

現在それらの距離はおよそ70kmと分かっている。

これは1里が、現在の約70mであることを示している。

(どのようにして距離を測ったのかは不明だが、記録された距離は信頼できることに成る)

もちろん1700年も経つと地形は一変している。

特に河口部は川が運んだ土砂によって海側にせり出していると考えられる。

ところが不弥国(三笠川河口あたり)までは現在の地図でも、方角を海側(北)にずらせば、たどれてしまうのである。

そして現在の地図で三笠川河口から、船で(水行20日)投馬国(南、大宰府あたり)に向かい、筑後川に流れ込む宝満川を下れば(水行10日)筑後川下流域に達する。

ーー

著者は、曲がりくねっており水量が一定でない三笠川を遡上するのは、天候や、荷物(女王への贈り物)にも影響され、進行は遅く、それが投馬国(大宰府あたり)まで水行20日の理由だとする。

(贈り物は道鏡100枚を含む。大宰府はその後も来日外国使節が最初に立ち寄る場所になっている)

宝満川からは下り(水行10日)で筑後川下流域に達するのだが、そこからの南へ長い陸行1ケ月は何を意味するのか。

著者は、支那人一行は恐らく朝鮮通信使(朝鮮は清の属国であり国使とは呼称できなかった)がやったように陸路隊列を整え、威儀を正しながら進んだのだろうと言う。

ーー

その目的地は卑弥呼(女王)の宮であった。

ーー

現在の「福岡県みやま市瀬高町」には、女山(ぞやま、旧女王山)がある。

女山山頂から西を眺めると、筑後平野一帯が見渡せる。

魏志倭人伝には、「女王の都するところ7万余戸ばかり」とあるが、それを彷彿させる光景だ。

町の観光案内には、権現塚(高さ5m、周囲約140mの円墳)が、卑弥呼の墓と紹介されている。

(卑弥呼は魏志の呼称なので、本来日本人の呼称があるはずなのだが残っていない)

さらに塚原巨石群には、戦前「卑弥呼神社」があった。

これらは女山の西の高台、女山神籠石(ぞやまこうごいし)周辺が女王の都であったことを示す根拠になる。

しかも確かにこの南側には女王国に敵対していた狗奴国(熊襲)の狗古智卑狗(くくちひく)の領地を思わせる菊池の地名が存在している。

ーー

新井白石に始まり津田左右吉など多くの歴史家が、この女山神籠石周辺が女王の都であったとしている。

そのあまりにも分かり易い議論を放置して、現在の道路事情を参考に、南へ陸行1ケ月では海上だと解釈する人がいる。

しかし1700年前には陸行1ケ月で女山に達しただろうと想像する方が、「南へ」を「東へ」とかってに変更して、その宮を畿内に持ってくるよりも自然だ。

ただ、このような何でも有りに紛れて、女山にある石垣は、朝鮮(当時存在しない)の築城方式と書くバカ者が現れている。

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コメント

>氏は、日本書記の記載が古事記のそれの倍であることを示し、日本書紀のそれは在位年ではなく春と秋の祭礼の回数であり在位年のおよそ2倍になるとして居られる。

この在位年数の数え方については、35年位前になると思いますが、「邪馬台国はなかった」(古田武彦著)でも触れられていたと思います。

邪馬台国論争は、研究者ごとに邪馬台国の場所が異なるので、本当はどこなのだろうと妄想するのだろうと想像するのですが、いつも「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」の部分だけが急に大雑把な表現になっていますから、それぞれの研究者さんの苦労を楽しむような気持ちになります。

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