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2017年5月26日 (金)

日本の勤勉革命と英国の産業革命

勤勉革命とは、家畜(資本)が行っていた労働を人間が肩代わりする資本節約・労働集約型の生産革命であり、これを通じて日本人の勤勉性が培われた。

歴史人口学者の速水融により1976年に提唱された。

ーー以下wikipediaより抜粋編集

日本では16-17世紀(室町末から江戸初期)耕地面積が急増している。

耕地開発の2/3は17世紀中に行われた。

これは治水・灌漑技術の発達により沖積平野部の開拓が可能になったからだった。

その間人口は16世紀の1500万人が17世紀末に3000万人に達した。

ーー

そうした中で農村社会も変貌する。

江戸時代前には、名主が名子・被官を動員した大規模な農業経営が一般的であり、有事にはそれがそのまま戦闘集団として機能した。

しかし平和な時代が訪れ、新田の開拓が進むにつれて名子層は平野部に進出して自立するようになる。

17世紀中ごろには一夫婦とその直系家族による小規模な家族経営が大半を占めるようになっていた(小農自立)。

こうして、新田開発が終わると、自立した小農達は、生産拡大を目指す。

ーー

それが勤勉革命(英:Industrious Revolution)であった。

ーー

18-19世紀の英国では、産業革命(英: Industrial Revolution)が起こっている。

それは機械(蒸気機関)を使うことで、労働者一人当たりの生産性を上げる、労働節約型の生産革命であった。

日本に比べて可耕地面積に対する人口が英国では希薄であったため、労働者一人当たりの生産性向上が求められたのだった。

英農村においては、産業革命に先行して進展した農業革命は大規模農業経営を目指すものであり、大量の家畜使用を意味した。

ーー

それに対し、日本では17世紀末にはもう可耕地が増えない状況になっており、農民たちは、同じ面積の田畑から、より多くの収穫を得ようとした。

つまり日本では、単位面積当たりの生産性向上が追求された。

そして土地ごとに適した作物の選択や二期作・二毛作のような高頻度の土地利用が工夫された。

そのためには細やかな手入れが必要となり、それにはむしろ小規模な農業経営の方が適していた。

ーー

日本では17世紀中ごろには農家の大半は小規模な家族経営となっており、市場経済に組み込まれていた。

農家は、土地を高度利用することで生産を拡大したのだが、それは同時に地力維持の努力を要求するものだった。

地力は深耕や肥料の大量投入により維持された。

深耕は、牛馬に犂を引かせるよりも、鍬を使った人手による開墾の方が向いていた。

また肥料も、干鰯や油粕等の金肥と呼ばれる購入肥料が主流となり、これは農家に現金収入を必要とさせて商品作物の栽培や副業による手工業品の生産を促した。

ーー

家畜の飼育は、飼料確保と人口を支える食糧生産が競合し高コスト化していた。

また畜力の有効性が低下する中で家畜の飼育をやめ、畜力から人力への移行を進めた。

農家は肥料の購入・投下という一種の投資を通じて企業経営的側面の強化を求められ、最少費用・最大効率の経済原理に基づいた行動をおこした。

尾張藩が治める濃尾地方では、1810年頃の家畜飼育数は1660年頃に比べて約45%に減少した。

特に生産性の高い平野部で著しく、林野が利用でき比較的飼育コストがかからない山間部では緩やか、最も低下率が少なかったのは牛馬を輸送に使う陶器生産地帯であった。

小農自立により経済利益を得て生産拡大を図る農民たちは自発的に勤勉に働いて労働時間は長時間化し、勤労・勤勉を尊ぶ倫理観が形成されていった。

ーー

勤勉革命を通じて土地生産性は向上し、江戸時代を通じて右肩上がりで増加を続けた。

耕地1反あたりの実収石高(全農業生産物を米に換算した生産高)は江戸時代初期においては0.963石であったのに対し、明治初期には1.449石に達している。

米生産に限ると明治初期の1878-82年頃では1ヘクタールあたり2.53トン(1反あたり1.69石)でこれは70-80年後の他のアジア諸国に匹敵もしくは上回る水準であった。

一人当たりの生産性も向上した。

ーー

17世紀の大開墾時代には農業生産を上回る総人口の増加がみられるため人口に対する農業生産性は低下する。

しかし人口・耕地面積の増加が鈍化する18世紀前半から生産性は上昇に転じ、特に19世紀後半には急増している。

これには副業による手工業生産高が含まれていないことを考慮に入れると農民一人当たりの生産性はより顕著に上昇したと推定できる。

また江戸時代に庶民の生活に余裕が生まれ大衆文化が華開いたことも生産性の向上を裏付けている。

ーー

生産性の向上は庶民生活に余裕を産み出し、識字率の向上や大衆文化の発展に寄与するものとなった。

江戸時代農民の長時間労働は、倫理観や経済的必要性に迫られたというだけではなかった。

小農自立に伴う隷属からの解放や自立経営の代償という意味も持っている。

また労働に対して生活の向上という見返りも見込まれた。

ーー

中世の農業労働者は多分に隷属的な立場にあったが、小農社会が形成される中で労働の自立性が強まった。

農民は勤労による成果を自らの収入とすることで富の蓄積が可能となり、そこまでいかずとも衣食住の全ての面で生活に向上が見られた。

中世には麻布が使われていた衣料は木綿の国内生産の拡大とともに綿布が主流になり、栄養面の改善は平均余命を伸長させた。

ーー

民家の造りも17世紀中頃を境に姿を変える。

それまでは地面に直接柱を埋め込んだ簡単な掘立小屋が一般的であったが、礎石の上に柱を立て土間に代えて板張りの床を使った精巧で長持ちする住居へと変貌を遂げていた。

また生産性の向上は所得の増加に止まらず余暇を産み出し、休日・祭日の増加へ繋がった。

近世における休日は村共同体内で決定されるため日数は地域・村落ごとにまちまちであるが、その原型は早いところで17世紀中、遅くとも18世紀中ごろには制定されおおよそ20-30日程度であった。

しかし早いところで18世紀後半、大半は19世紀中から休日は増加し、多くは30-60日、最大で仙台藩の80日にまで達していた。

ーー

西ヨーロッパにおいて勤勉を美徳とする倫理観はプロテスタンティズムの影響を受けたものである。

が、日本人の「国民性」とも言われる勤勉性は勤勉革命、つまり経済原理に則った江戸時代農民の行動によって培われたのだった。

そして勤勉革命の成果が減衰しないうちに工業化が行われたことが近代日本発展の土台となり、また現代において度々指摘される「日本人の働き過ぎ」の遠因となっている。

ーー

ただし江戸時代農民の勤勉性と現代人の考える勤勉性は必ずしも一致しない。

工業化以前の農村社会では、社交と労働が混然とした中で季節毎に課題が遂行される「課題本位」と呼ばれる仕事の仕方をしていた。

それは時間を気にしながら働く人からは浪費的で緊張感を欠いていると看做されるものであった。

江戸時代には計画的な農業経営が求められて農書の中でもその大切さが強調された。

「一年の計は元旦にあり」
「時は金なり」
「早起きは三文の得」

の格言には計画的な行動や時間の重要性が協調されている。

しかしこれは工業化を経験した人間が重要視する定時性とは異なるものであった。

それゆえ、明治初期に日本に訪れた西洋人の中には「日本人は怠惰な民族」とみなす者も存在した。

ーー

江戸時代には海外との貿易が制限されたが、その中で勤勉革命は木綿や陶磁器などの主要手工業品の国内自給を可能にさせた。

鎖国政策下でも四口と呼ばれる対外接触ルートが存在し、それを通じて貿易が行われていた。

しかし輸出の主力であった金・銀・銅の鉱物資源の国内生産量が減少すると貿易が制限されるようになり、輸入品の国産化が進んだ。

17世紀における輸入の主力は生糸であったが、17世紀末から18世紀にかけて幕府が輸入制限を行うと国内生糸生産量が急増してその穴を埋める。

生糸に代って輸入の主力となった砂糖に関しても19世紀初頭には国産白砂糖が輸入糖を圧倒し、日本経済は事実上「閉鎖(自給)体系」と呼べる状況になっていた。

ーー

1976年に速水が勤勉革命論を提唱すると日本ではそのまま受容された。

川勝平太は自身の「海洋論」の中で勤勉革命を

「日英両国は17世紀まで木綿・陶磁器等の物産をアジアからの輸入に頼っていた。

しかし、イギリスは本国・新大陸・インドの三角貿易による海洋型自給圏、日本は国内における陸地型自給圏を形成することでアジア依存からの脱却に成功した。

そしてそれは産業革命・勤勉革命の二つの対照的な生産革命を契機とする」

と位置付けた。

ーー

杉原薫は世界史の視点から「土地が稀少で労働力が豊富な東アジアでは、勤勉革命にみられる労働集約的な発展経路が形成された」と捉えている。

ヤン・デ・フリース(fr)は、産業革命前夜のヨーロッパの労働集約的手工業の発展を勤勉革命と呼んで勤勉革命と産業革命は連続的なものと捉えた。

しかし速水は「勤勉革命は工業化と対立する概念」であって外圧なしに自発的に工業化へ発展しないものと捉えており、これに対し否定的な見解を示している。

ーーここまで抜粋

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

江戸中期になると、新田の開発はし尽くされて、人々は生産性をあげることに腐心するようになります。

牛馬でおおざっぱに耕していたのを、鍬で深く耕し、肥料も、干鰯や油粕などを使うようになった。

すると農家の中に、こうした肥料を作る人が生まれ、肥料を入れるズタ袋を作る人、それを輸送する人、肥料問屋が生まれたのです。

農家も、肥料を買うために、売れる作物を作らなければならなくなる。

こうして農業関連産業が興ったのでした。

やがて、1反(いったん)あたり、江戸時代初期の0.963石から、明治初期にはなんと1.449石取れるようになっていた。

ーー

ところが人口は変わっていないので、生産性の向上は、庶民生活を豊かにし、識字率を上げ、読書習慣を広め、歌舞伎や落語などの大衆演芸を生んだ。

また、伊勢参り、金毘羅参り、善光寺参り、出雲大社参りと、各地で旅行熱が高まる。

大勢の旅行客は、各地に外食やみやげ屋を育んでいった。

ーー

着物は麻から木綿に、そして様々な染物が普及し、また、また旅行客をもてなす色鮮やかな陶磁器も作られるようになった。

器の発展にもつながっています。

江戸中期以降、小規模小作農家が、勤勉によってその生産性を劇的に向上させ、収入を増やした。

これを勤勉革命と名付けたわけです。

ーー

この勤勉革命があった事によって、日本は西洋がもたらした、産業革命を短期間で実現することができた。

幕末の欧米列強の植民地支配から、有色人種国として唯一、これに抗する、というのが、速水教授が唱えた勤勉革命です。

1971年に速水博士が、この勤勉革命説を発表します。

すると、英国のJan de Vriesは、1986年、実は英国でも、産業革命の前に勤勉革命が起こったという説を出した。

それまで、英国では、機械化による生産性の劇的な向上(つまり勤勉とは逆)を、産業革命と呼んでいたのですから、Vriesの主張は、賛否両論、たいへんな議論を巻き起します。

そして、現代においては、英国でも勤勉革命があって、産業革命が起きたという論が主流になりつつあるといわれています。

ーー

要するに、近代を開いたと言われる産業革命が、速水博士の勤勉革命論によって変容したのでした。

ーー

この勤勉革命論は、明治維新に対する説明も変えようとしています。

明治維新が成功したのは、江戸時代に勤勉革命が進み、識字率の向上があったからだと。

そう考えて初めて、江戸末期の庶民の識字率が世界最高水準にあった事が理解されるのです。

そのことによって1853年に黒船が来航して、わずか15年で、明治政府を作り、以降、欧米列強に、追いつき追い越すことが可能となった。

ーー

勤勉革命が、日本人口の倍増を可能にし、江戸の庶民文化を生んだ。

恐らく、支那・朝鮮人が、いつまで経っても近代化できない理由は、彼らが勤勉革命を経ていないからだと言えるでしょう。

他人の財を奪うより、自分でコツコツ努力して生産性を高めて行ったほうが、長い目で見たら、みんながはるかに豊かになるのです。

盗むより働く、嘘をつくより正直でいる、威張るより現場で頑張る

こんな日本人の国民性は、まさに勤勉革命によって、補強されたのです。

ーー

以上は、速水融著『歴史人口学研究ー新しい近世日本像』を要約したものです。

ーー

日本人が勤勉革命を実現できたことについて、私(ねず)は、日本国の特性があると考えています。

日本の農民は、生産性を上げても、それが役人に奪われることが無かった。

(支那・朝鮮では、農民の生産物を官僚が容赦なく奪っています)

生産性を上げてもそれが奪われるような環境では、勤勉革命は成立しないということなのです。

日本で民衆が大切にされ搾取から守られたのは、民衆が天皇の宝と考えられてきたからでありましょう。

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コメント

YouTubeで、あの鉄也が反日洗脳工作を、真実と嘘をちりばめて、緻密に情報弱者を、騙してます。反日工作員の一人だったんですね。外患罪です。

病院て大体地元の新聞と毎日新聞を置いてますね。何故でしょうか?

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