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2017年5月14日 (日)

京都東山にある正法寺のこと

地名の由来が分かると面白いものである。例えば日光は、二荒(にこう)、つまり二柱(ふたはしら)の荒ぶる神の居ます地と言う意味に由来している。二荒はまた「ふたあら」とよまれ、観世音菩薩の住む補陀落(ふだらく)とされ、観音信仰の聖地ともなったのである。

小生は、個人的に、京都東山にある正法寺を知っているのだが、その地域は、また霊山(りょうぜん)としても知られており、すぐ近くに霊山歴史館がある。そして正法寺の建っている丘は、霊鷲山(りょうじゅせん)と呼称されているのである。

しかし何故そのように呼ばれてきたのかは、全く知らなかった。それが、ネットを調べていて、以下のようなお話に由来していることが分かったのである。

少々ややこしいがそれをお目に掛ける。

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弥勒菩薩(みろくぼさつ)

菩薩とは覚者の教えを実践する人の呼称なのだが、弥勒は、梵名マイトレーヤ、その意訳名慈氏、成人後は無勝の意を持つ阿逸多Ajita と称した。現インドの波羅奈パラナシー国に生まれシャカの教えを受け、シャカの死後、覚者として生まれ出ることを約束された。

弥勒はシャカ(ゴータマ・シッダッタ、悟りを開いたのちは覚者(仏陀)、釈迦牟尼仏、毘盧遮那仏、大日如来、現在単に仏などの呼び名)の次に覚者となることが約束された菩薩で、シャカ入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わし、多くの人々を救済するとされる。

それまでは兜率天(とそつてん)で覚者の教えを実践しているといわれ、そのため、かつて弥勒の居る兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)まで流行した。

『弥勒下生経』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説かれている。
なお、56億7千万年後に覚者としてその姿を現わす(下生)のを先取りして弥勒如来、弥勒仏と呼ばれることもある。

弥勒下生譚について記述された『観弥勒菩薩上生兜率天経』、『弥勒下生経』、『弥勒大成仏経』の3本を『弥勒三部経』と呼ぶことがある。(ウィキペディア)

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摩訶迦葉(まかかしょう)

頭陀(ずだ)とは梵語のDhūta(ドゥータ、払い落とす、棄捨の意)の音写であり、衣食住に対する貪欲を払い落とすための修行である。シャカのもとに参集した人々が、教団を形成することになるのだが、その教団で「頭陀第一」と讃えられる人物がおり、シャカ入滅後の教団を指導した。それが、摩訶迦葉(まかかしょう)なのである。

シャカ弟子中「迦葉」の名を持つ者は多く、また各々それなりに軽からざる人物であったが、その中でも大いなるものであったので、梵語で大を意味する摩訶を付けて摩訶迦葉と呼ばれた。中でも、覚者であるシャカの教えを集大成したことが、彼の最大の功績とされている。

マガダ国王阿闍世の後援の下、この結集総会でシャカ一代の説法と禁制に関する弟子達の記憶が確認された。これによって後世に仏教が伝えられる基が築かれたのであった。説法に関する伝承は「経」、禁制に関する伝承は「律」、と云う形で文字化され、広がっていくことになる。

そして、シャカ入滅時に、シャカが摩訶迦葉に遺言した内容も伝えられた。それは、覚者の教えを守り伝えることと、ある袈裟(けさ)を弥勒が覚者として現れた時に手渡すことだった。

袈裟とは、仏教僧侶が身にまとっていた布で、僧侶は財産になるような私有物を持つことを禁じられていたため、使い道が無くなり捨てられたぼろ布を拾い集め綴り合せて作られた。布は在家者(白い布をまとっていた)と区別するために草木や金属の錆を使って染め直され、黄土色や青黒色をしていたとされている。

弥勒が覚者としてこの世に降臨した時に、このシャカ伝来の袈裟を彼に手渡すまで、つまり、シャカ入滅後56億7千万年間、摩訶迦葉は死ぬに死ねないのである。「結集」から20年後のある日、彼は鶏足山の山中で覚者の教えを守り、瞑想に明け暮れていた。すると、山が3つに割れ、摩訶迦葉の体を呑み込み再び閉じた。

弥勒が覚者としてこの世に降臨すると、山が再び割れ、山から摩訶迦葉が出てきてシャカ遺言の袈裟を弥勒に伝え、直ちにその身に火を放ち死することによって悟りの境地に入る。さすがにこの生きた証を目の当たりにした人々はこぞって仏教に帰依するのだといわれている。

別の説によると、「結集」も終わって一段落付けると、すぐに彼はシャカの後を追って死ぬ。その場所も鶏足山ではなくて霊鷲山であり、弥勒の世に出るのも彼の遺骨であるとされる。 http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Makakasy.html

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「ご承知のようにインドには雨季があります。この三ヶ月から四ヶ月間、シャカは弟子たちとともに一ヶ所に集まって、しばし定住生活をしました。これを「雨安居うあんご」といいます。この期間は弟子たちは各自が掘っ建て小屋を建てて雨露をしのぎ、勉学にいそしみます。

そのためには一定の土地が必要となりますので、各地に安居の場所が寄進されました。その最も有名なものが、西のシュラーヴァスティー(舎衛城、舎衛国)の祇園精舎であり、東のラージャグリハ(王舎城)の竹林精舎でした。ただし精舎といっても、ただの園林だったと考えられています。

王舎城おうしゃじょう(サンスクリット:ラージャグリハ)は、シャカ時代のマガダ国の首都で、西の舎衛城とともに、シャカ伝道活動の大きな拠点の一つでした。王舎城には耆闍崛山ぎしゃくつせん(サンスクリット:グリドゥラクータ、パーリ:ギッジャクータ)という名の小高い山があります。グリドゥラあるいはギッジャとは鷲ハゲワシ、クータは峰の意味で、山頂付近に鷲の形に似た岩があることからその名が付けられました」http://mujintou.lib.net/dharma/bukkyo/sravastirajagrha.htm

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音写の、耆闍崛山(ぎじゃくっせん、ぎしゃくっせん)、または祇闍崛山等は、従って、鷲峰山(じゅほうせん)、霊頭山、霊鷲山(りょうじゅせん)、鷲頭山、鷲台等と漢訳されている。それは略して、霊山(りょうぜん)と記される。

つまり「弥勒が、覚者(仏)となって降臨し、耆闍崛山(ぎしゃくつせん)頂に登り、手ずから山峯を擘く(つんざく、勢いよく突き破る)。すると梵天が、摩訶迦葉に香油を潅(そそ)ぎ、大犍稚(ケンチ、梵鐘)を鳴らし大法螺(ほら)を吹きならす。それを聞いた摩訶迦葉は、定より覚め、衣服を整えて、弥勒の前に現れ、合掌して跪(ひざまず)き、シャカ遺言の袈裟を弥勒仏に授け奉(たてまつ)る」のである。(http://www.aozora.jp/misc/cards/000093/files/08tori.pdf  9~14Pより抜粋もしくはhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/2540_35098.html

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つまり霊鷲山(りょうじゅせん)は、摩訶迦葉(まかかしょう)が、今も定にはいったまま生きている場所であり、やがて弥勒が、覚者(仏)となって降臨する場所であるいうことになる。

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以下を参考編集引用しました

弥勒下生譚 雑考
2011-01-01 18:14:51 http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/f5ac25ee1a2515967a9baa7cb3a45017

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