無料ブログはココログ

« 日本統治によってはじめて生まれたのが朝鮮人korean(エスニック)なのです | トップページ | 素直に原著を読めば邪馬台国の位置は明らかだ »

2017年5月 2日 (火)

素性法師をオカマ呼ばわりするような大学なんぞいらない!

ーーナポレオン・ソロ氏は次のように書いている

あのテキサス親父が、ある慰霊碑を参拝し、その動画をネットで公開している。ある日、日本のある町から、テキサス親父に連絡が入り、参拝したのです。

ーーその動画とは以下の様なものだ。

戦争末期に空爆に来た2機のB29が、空中衝突して墜落しました。

1万m上空でバラバラになった機体から搭乗員の遺体を引きずり出したのは、空爆された側の人たちでした。

彼らは、皆で遺体を集め、火葬し埋葬し、寺に納骨・保管しました。

戦後彼らは、その経緯を米国に知らせて、遺族を探し遺骨を渡した上で、名前を訊きとりました。

そして、一人ひとりの名前を刻んだ慰霊碑を建立したのです。(ここまで動画の解説)

ーー

私は、この慰霊碑を建てた人々が持っていたのが、人間として持つべき「悼み」だったと考えています。

「自国の為に闘い命を落とした」人々の勇気に、例え被害をこうむっても、敬意を表しその霊を慰める。

この行為は、お互い「義(公)の為に死への恐怖を感じながらも戦い合った」者だけが、共感出来る行為だと思います。

「自分の命よりも大切なものの為に生きた」死者のために慰霊を行う。

そこには、「義(公)の為に生きる」ことへの理解が見られる。

文明的かどうかは、何より、「義(公)の為に生きる」と言うことに理解が及ぶかどうかという事なのです。

ーー(抜粋ここまで)

ーー

また、例えば織田信長が好んで口にした謡曲、

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」

これは、幸若舞の演目のひとつ「敦盛」(あつもり)の中の一節なのだが、

ーーwikipediaの「敦盛」のあらすじ

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめる。

平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手、平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまう。

敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす。退却船も気付いて岸へ船を戻そうとするが逆風で思うように船体を寄せられない。

敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいた。

そこに源氏方の熊谷治郎直実(くまがいじろうなおざね)が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑む。

敦盛はこれに受けあわなかったが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫した。

多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じた。

しかし悲しいかな実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまう。

ーー

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者。

名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。

直実の同じく16歳の子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死した(実際には死んでおらず、その家系は信州下伊那に残る)ばかり。

我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんだ。

組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を見て、同道の源氏諸将が訝(いぶか)しみはじめ、

「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めた。

というのも、熊谷直実の父・熊谷直貞が平盛方の子で熊谷(源氏)家の養子となった家系であることが知られていたからだった。

直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わったが、自分の出自の事もあって、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。

翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は、敦盛の御霊(みたま)を供養するために出家を決意する。

ーー(ここまでwikipediaより抜粋)

さて

百人一首21番歌は、素性法師(そせいほうし)の歌だ。

今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな

この歌についての、例えばネットで検索すると出て来る評価は、

黒木陽子の百人一首を斬る!【第二十一回】には、次のように【斬り!】されている。

ーー以下抜粋編集qazx

さてさて。物足りない。同じ三十一文字なのにな。斬りがいがある歌と無い歌があるのね。

作ったのがお坊さんで、女言葉で女性の気持ちを詠んでいる、しかも恋愛の歌というと。

三つが相まって私を「あほくさ・・・」モードにしている。

ーー

素性法師「はぁ~?この男が三十六歌仙のうちの一人だと?認めないね、私は!」って思っちゃったね。

ーー(ここまで抜粋)

ーー

まあこの歌の本当の背景を知らない人、つまりこの歌の真価を読み取れない人にとっては、こういう扱いしかできなくなる。

「ねずさん」は、その背景を次のように書いている。

ーー以下「ねずブログ8/25」より抜粋編集qazx

この歌を現代語訳したら、「すぐに帰って来る、と言ったので、ずっと長い間(長月)待っていました。とうとう晩秋(長月・旧9月)の明け方になってしまいましたわ」といった意味になります。

「今来む」と言ったのは、男性、そして、その言葉に対して、女性が、「待っていましたのよ」と、恨みがましく言っている。

女性が、彼氏がなかなか帰ってきてくれないことを、嘆いた歌だとされています。

ーー

ところがこの歌を詠んだ人の素性(すじょう)は、釈迦の教えを説く男であり、だから素性法師(そせいほうし)と名のっている。

中には、「オネエ言葉で、帰って来ない彼氏のことを恨みがましく書いている」、「素性法師はオネエだ」と解説する人までいます。

ーー

作者は、出家する前は、良岑玄利(よしみねのはるとし)といって、左近将監(さこんのしょうげん)を勤めた人だった。

左近将監は、徳川家康と同じ位、武門の長である将軍、いまで言ったら、防衛大臣、ひとむかし前なら陸軍大将なんです。

それだけの要職にあった人が、突然、出家したのです。

妻帯、飲酒、肉食、カラオケを容認している現代の出家とは違います。仕事も家も家族も全部投げ出して、出家したのです。

「だからきっと、よほど相手の男性が恋しくて、捨てられてショックだったのかもしれないね」などと、解説している人が、いまどき多いんです。

ーー

でもね、違うんです。

ーー

この時代は、藤原純友の乱があったりして、日本全国で、武力衝突が頻発していました。

良岑玄利は、戦(いくさ)に勝ち、生きて武門の最高位にまで上り詰めたのです。

良岑玄利は、武門の長になり、自分の命令で、多くの侍(さむらい)を戦場に送り、死なせた。敵・味方ともに多くの戦死者が出た。

彼が出家したのは、亡くなられた敵・味方の侍たちの御霊(みたま)を供養するためでした。

ーー

そして良岑玄利は、最後には、仏教界の三大高僧の一つである権律師(ごんのりっし)になります。

仏教界に於いては、相当の善行がなければ、そんな僧に戒律を与えるような高い位はもらえません。

では彼は何をしたのか。彼は、戦死した侍(さむらい)の家を一軒一軒尋ねて、仏壇に手を合わせて歩かれた。

これについては、そのように書かれた記録はありません。けれど、まさにこの歌が、そのことを明確に語っているのです。

ーー

戦死者を訪ね歩いたある日のことです。亡くなった侍の家で、僧の応対に出てきた侍の妻が、恐らく上座に招き入れ、

「夫は、今度の戦(いくさ)は、すぐに帰れる(今来む)と言いのこして出て行きました。ですから帰ってくるのを待っていました。しかし、月日は過ぎ、もう晩秋の9月、有明の月が出る季節になってしまいました。それなのに、夫はまだ帰って来ない」

妻はそう言うと涙をこらえてすすり泣いた。猛将・良岑玄利も、ただ黙って死者のために祈るしかなかった。

この歌には、そんな夫を失った妻たちの純情が隠され、詠まれている。選者の定家卿は、その隠された情景を良しとし、百人一首に加えたのです。

ーー

実際、同様の話は、日清、日露、あるいは支那事変や大東亜戦争のときにも、たくさん残っています。

有名なもののひとつが、支那事変のときの松井岩根大将です。

彼は戦地の岩を取り寄せて興亜観音を寄進していますし、乃木大将は日露戦争の戦没者のために、全国の神社に「忠魂碑」を寄進されています。

少し古い話ならば、戦国時代の名将が、出家して仏門に入り、なくなった将兵の御霊を安んじることに生涯を捧げたという話なども、たくさん残っています。

ーー

もっと近い最近の話もあります。

大東亜戦争で特攻隊の指揮官だった玉井浅一司令です。彼は戦争が終わった昭和二十二年の猛暑の日、愛媛県の関行男大尉の実家に、大尉の母のサカエさんを訪ねました。

玉井元司令は、関大尉の母に両手をついて深く頭を下げると、次のように言いました。

「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいます。私は若いころ、空母の艦首に激突しました。ですから散華された部下たちの、張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がします。せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが」

この後、玉井司令は、日蓮宗のお坊さんになりました。

そして海岸で平たい小石を集め、そこに亡き特攻隊員ひとりひとりの名前を書いて、仏壇に供えました。

そしてお亡くなりになるその日まで、彼らの供養を続けられました。

昭和39年5月のことですよ。
広島の海軍兵学校で戦没者の慰霊祭が行われました。

そのとき日蓮宗の導師として、枢遵院日覚という、ものすごく立派なお坊さんが、役僧二人をともなって着座したんです。

戦友たちは、その導師を見てびっくりしました。
そのお坊さん、玉井浅一元司令なんですよ。

それでね、玉井さんの前には、軍艦旗をバックに物故者一同の白木の位牌が並んでいたんです。位牌にはね、ひとつひとつに戒名が書かれていました。

そのご位牌も、玉井さんが、沐浴(もくよく)して、丹精込めて、何日もかけて書き込んだものだったんです。

ーー

読経がはじまると、豊かな声量と心底から湧きあがる玉井さんの経を読む声は、参会者の胸を打ちました。

来場していた遺族や戦友たちは頭を垂れ、涙を流していました。
もう、滂沱(ぼうだ)の涙ですよ。
会場に鳴咽がひびきました。
導師の読経と、遺族の心が、ひとつに溶け合ったのです。

それが、5月ですよ。
その年の暮れ、玉井浅一さんは、この世を去りました。
62歳でした。

ーー

武将であれば、国を護るために戦わなければならない。
けどね、戦えば、敵味方を問わず、命がたくさん失われるでしょ?

人の命をなんとも思わない将軍や王が、歴史にはたくさん登場する。

けれど、日本の将は違うんですよ。
部下たちの命をどこまでも大切にしたんです。
だから、みんな、心底、付いて行ったんです。

ーー

この「素性法師」は、日本の武人の将の心を歌に詠んだ。

それを、「この坊主はオネエだったに違いない」って、
これが日本の名門大学の国文学の大学教授の解釈ですよ。

もうね、日本の戦後って、何なんだ、って言いたくなります。
そんなくだらない解釈なら、世の中に大学なんていらない。

ーー

江戸時代には、文部省に相当する役所はなかったんです。
教育は、寺子屋や私塾が役目を担いました。
だから、淘汰の原理が働きました。

親から見て、役に立たないようなことを教える寺子屋や塾は、
早々に潰れてなくなったのです。

ーー

明治以降は、文科省ができましたけれど、
そうした練度の高い寺子屋教育を受け付いた戦前の学校は、
実はとっても楽しいところでした。

人間、誰にだって、知的好奇心というのがあります。
そんななかにあってね、上にあるように、
たとえば良岑玄利と、浅井司令のお話のようなことが、
授業で毎日行われていたらどうでしょう。

もう、毎日の授業が感動の嵐ですよ。

ーー

だから昔の子は、小中学生でも、6キロも7キロも歩いて、
雨の日も風の日も雪の日だって、嬉々として学校に通ったんです。

田植えのシーズンになって、
親から「田植えがあるんだ。学校を休め」っていわれると、
学校に行けないのがつらくてかなしくて、子供たちは泣いたんです。

それが学校だったんです。

ーー

ちょうどいま、百人一首の本を書いている最中で、
あまりにもあんまりだって思ったものですから、つい書いてしまいました。

もちろん、本には、こんな批判的な言い方では書きませんよ。
もっと冷静に、客観的な書き方をします。

「素性法師をオカマ呼ばわりするような大学なんぞいらない!」
(ちなみに某国立一期の戦前までは最高峰だった大学ですが)

ーー

日本を取り戻す。

それって、まだまだ遠い道のりです。
でも、とりもどすべき価値のあるものは、しっかりと取り戻す。

それが、先人へ感謝を捧げることになるのではないかと私は思うのです。

« 日本統治によってはじめて生まれたのが朝鮮人korean(エスニック)なのです | トップページ | 素直に原著を読めば邪馬台国の位置は明らかだ »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 日本統治によってはじめて生まれたのが朝鮮人korean(エスニック)なのです | トップページ | 素直に原著を読めば邪馬台国の位置は明らかだ »

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31