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2017年5月20日 (土)

お金はなぜ人を幸福にしないのだろうか

幸せを手に入れるために、富みを得ようとする。これは余りにも当たり前の行為と見なされているために、「どうやら「富」は「幸せ」を増やすよりも、減らす可能性がある」、との研究者の報告は、驚きをもって迎えられた。

すると、人が求め続け、しかもその求める行為が、自分の本心から外れて居ても止めようとしない、のは、そのほうが楽だからだと、小難しい議論をしている人がいる。

しかも、「神を観る」などという、聞きなれない言葉を使っており、意外なので、小生に分かるように編集してお目に掛ける。

ーーーーー徹底的改造計画

青い鳥はどこにいる?2010-08-19 08:19:29
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/dab238bc6769e526d1892f9570718ba5

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WIRED NEWS 原文(English)
http://wiredvision.jp/news/201008/2010081823.html

お金が人を幸福にしない理由:心理学実験から
2010年8月18日
Jonah Lehrer

ーーーーー編集qazx

特に先進国では、お金は、必ずしもわれわれを幸せにはしない。貧困を脱してしまうと、「富」は「幸せ」にそれほど大きな影響を与えない。現在、世界一豊かな国・米国でも、「幸せ」だと感じない人たちが増えている。

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「お金はなぜ人を幸福にしないのだろうか」この問題に対しては、ベルギー・リエージュ大学の心理学研究班が行った実験が面白い。

リエージュ大学の用務員から上級管理担当者まで成人職員351人を集め、無作為に2群に分け、その1群には、山のように積んだユーロ紙幣の画像を見せた。

その後で、一連の質問を行なった。その質問は、「楽しむ能力」を測るために作られたもので、重要な課題をこなす(充足感)、遠出してロマンティックな週末を過ごす(喜び)、ハイキング中に見事な滝を発見する(畏敬の念)という、いずれかの経験を想像するよう求められる。    

それぞれの経験に対して、反応として8通りの選択肢が用意された。そのうち4つは、肯定的な感情を表わす、その瞬間の気分を楽しむ、その出来事を楽しみに待つ/追想する、その経験について他人に話すというもので、経験を楽しむ能力を表す。

被験者は、そのような状況下で自分が通常とるはずの行動を最もよく表わしている反応を、1つまたはそれ以上選ぶように求められ、経験を楽しむ選択肢を1つ選ぶごとに1点獲得する。

オンラインで結果を集計したところ、紙幣を見せられた被験者たちは、経験を楽しむ能力の得点が有意に低かった。この結果は、人間はただお金の画像を見るだけでも、人生の小さな喜びを楽しむことへの興味が薄れる可能性を示唆している。

また被験者は全員、収入を把握されていたので、現実に多くのお金を稼いでいる被験者ほど、楽しむ能力の得点が有意に低いことが分かった。

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以上の研究について、研究班は寒々しい調子で次のようにまとめている。

われわれの研究は、富が幸福を必ずしも増やさないことを実証するものとなった。しかも富を連想させるものを見るだけでも、人間の楽しむ能力を害することが分かった。言い換えれば、人間の楽しむ能力を低下させるために、実際にエジプトのピラミッドを訪れたり、カナダの有名な温泉に1週間滞在したりする必要はないということだ。

最高に楽しいことをたやすく経験できると考えるだけで、日々の小さな喜びは、あって当然のことと捉えられてしまい、楽しみがそれだけ減少する可能性がある。

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ーーーーー編集qazx

人は、他人より豊かになろうとし、より多くを得たいと願う。それはとても自然な行動であり、通常、人はそうすることが自分の幸福に直結していると信じて疑わない。

私たちの表面意識は幸福になるためにお金持ちになることを望む。しかし、潜在意識は幸福になるためにお金持ちにならないことを望んでいる。表層意識は、仮面であり、潜在意識の方が私たちの本心なのだろう。

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場合によっては人は一生を仮面のまま過ごす。善人の役、悪人の役、守銭奴の役、何にせよ、仮面以外の自分の在り方があろうとは露程も思わない。だから善人は悪人を断罪することに容赦なく、悪人は善人にどこまでも無慈悲で、守銭奴は得ることに手段を選ばず時に他人の物まで容赦なく奪う。

でも善人の中での悪への同情、悪人の中での善への憧憬、守銭奴における貪りへの慄(おのの)きが、生じることがある。しかしその声にうっかり耳を傾けようものなら、自分はこれからどういう自分であり続けられるのだろうかという恐怖に襲われることになる。

仮面を捨ててしまえば、今ある自分は消えてしまう。仮面を脱ぎ捨てた後、なお自分に素顔はあるのか。ひょっとしたら仮面の下は何も無いのではないのか。それは誰にもわからない。

恐らく仮面を脱げば、周囲の人間の多くはあなたを見知らぬ人同様に扱う可能性が高い。つまり周囲の人間との関係で失うものが多いだろう。

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仮面を脱いだあなたは、これまでの自分から開放される。表層と潜在の自我が統一され、場合によっては、自我さえ放棄することになり、自我は境界を失い、他者の心の壁を乗り越え、まるで自分の心と他人の心が同じものであるかのように、見通せるようになる。

これこそが俗に、神を観ると言われている事なのである。観る者と観られるものを隔てる境界を超えることは、神の見ているものを観るということなのである。

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ここで一部の人は、観る者と観られるものを隔てる境界をも確かに無意味なものであると了承して、その瞬間、望むこと一切を捨て去り、覚者への道、永遠の寂静へと歩みだす。

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しかし知恵ない者は、観る者と観られるものを隔てる境界を超えると、観られるものを創造できることを知り、観る者から観られるものを自ら生み出す側に進もうとする。それは、あたかも虚空のなかに無限の合わせ鏡をおいて自分の姿に似た虚妄を無限に創りだすようなものだ。そして、生み出したもの全てが、自身の似姿であることをも忘れ、外部存在だと勘違いし、そこに魅せられてしまう。

創造への執着、無限の妄想の連鎖、結局それこそが「神を観た」ときに生じる欲望なのだ。下手をすると、「神を観た」ばかりに、無限の喜怒哀楽の罠に永遠に自身を閉じ込められ、抜け出せないままそこで永遠に遊戯することになる。

「神を観た」人はそうでない人とは違う次元で、しかし相似な愚かさを有している。異なる存在の階層ではあるが、同質な迷いを持つということになる。たしかにそれは合わせ鏡の中の似姿そのものだ。だから鏡ごと割ってしまえばよい。あるいは目を閉じ似姿を観ないようにすればいい。

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何かを得たいと強く願う心は、本心を知ることから人を遠ざける。真に心が求めてやまないものを見えなくする。それはまるで京都から東京を目指して西に向かって歩くに等しい。あるいは温かいものを必要としている時に、冷たいものを口に入れるようなものだ。

だから本心を知り、真に求めるべきものを知るためにこそ、一旦は求めることをすべて静止させる必要がある。それはたぶん本質的に不幸なことなのであろう。

本来の自身とは真逆な自分を演じ、演じている自分こそを自分だと疑うことなく、生涯をそのように終える。夢から決して目覚める事無き夢遊病者。舞台を降りてもなお役を演じ続ける道化。その方が、人にとっては、楽なのだろう。

求めることをやめ、作為を企てることを止めることでしか、人は本心に至ることはできない。かくしてこの世界は虚妄と虚構によって出来上がった網のうちに人々を等しく閉じ込めている。そこから自身を開放できることは網に掛かった魚ほどに稀である。

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