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2017年5月22日 (月)

覚者は、人の欲望が叶うことは決してないと教えている

ーーーーー徹底的改造計画

隣の芝生は本当に青いのか?問題
2010-08-04 15:16:37 | Weblog・他http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/6d8d767392bfc7d18a9daabc48c0e0a2#comment-list

ーーーーー編集qazx

(質問、20代女性)私には、すぐに他人と自分を比較してしまう癖があり、他人の中に自分にないものを発見して、それが、羨ましくて、悩んでしまいます。つらいので、何か生き方のヒントが見つかればと、哲学書をはじめたくさんの本を読んでいます。

私は、この不況の中、仕事があり会社勤めをし、優しい家族や友達、恋人に囲まれ暮らしています。幸せな日々を過ごしているはずだ、と考え、部屋のあちこちに、「ありがとう」と書いたシールを張りました。いつも目に留まるようにして、感謝の気持ちを忘れないようにしています。

それでも時々、他人と自分を比較して、自分が惨めになり、どうしようもなく悲しくなり、落ち込み、嘆いてしまうのです。涙があふれてきます。隣の芝生は青いのは承知していますが、どうしたら他人と自分を比較しても、豊かな気持ちで生きていけるのでしょうか。

ーーーーー 

(回答)何かを得るたびに一旦は満足し、しかし次の瞬間、自分が持っていないものを他人が持ち合わせていることに気づくやいなや新しい不満が心に影をさす。その影は時間とともに濃くなり、いつしか心そのものを闇に染める。その闇のなかで人は生涯囚われ、苦悩し続けている。

愛する者を手にしても失う悲しみもある。一つのものを得るためには別の何かを犠牲にし捨てるしかない場合もある。社会で成功するほどに他人の妬みは増え敵も多くなる。何より、そうして得てきたもの、積み重ねたきたもの一切が、我が存在もろともに、自らの死によって消失する。

覚者は、人の欲望が叶うことは決してないと教えている。求めることが衆生の本性になっているが、しかしその望みは満たされはしない。満たされぬ苦悩は、自ら求めることをやめる以外には、永遠に続く。しかし求めることを捨て去るのはとても難しい。

人は生ある限り何かを求めずには居ることが出来ない。たとえ俗世一般の欲得がなくとも、喉が渇けば水を欲し、溺れれば空気を欲し、寒さにあれば日の温かさを求める。それゆえ人が求めることをやめるとは、生きながら死ぬことになりかねない。

まあ、ありていにまとめれば、死への覚悟なくば欲を捨てることはならず、欲を捨てることなくば目覚めることはなく、目覚めることなくば苦悩から逃れ得ない。目覚める人はめったに無い。なので通常人は、皆ひとしく苦悩しながら生きている。

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ここで、「求めるが得られないがゆえの苦悩」を退治するための心の工夫を、夢想疎石の「夢中問答」からいくつかお目に掛ける。

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得ることに汲々とする人たちはこう考えなさい。

人の生業は様々である。ある人は農作をし、別の人は商売をする。さらには巧みな手先を生かしたり、あるいは芸事に精進したり、役所や会社に勤める。しかし、多大な工夫を重ねながらも望むほどの福徳を手に入れる人はわずかであろう。

それさえも火事にあい失い水害にあって流され、時に泥棒に奪われ税金として取られる。つまり平穏では済まない。一生涯そのような不運にめぐり合わない人はほんのわずかである。

しかし今生(こんじょう、この世)の福徳がすべて前世になした己の善行の報いであると考えれば、どうであろう。災いの到来は、前世に積み重ねた善業はすでに今生での幸福として受け尽くして、もはや残っていないためだと納得もできようと言うものである。

今生の幸運に増長し、世間に奉仕せず、弱いものを手助けせず、他人に無慈悲をおこない、悪業だけを積み重ねているのかもしれない。幸福を無思慮に受け尽くし、悪業だけを残せば、それは来るべき来世、贖うべき罪科が約束されているに違いない。

まことに今生での幸福を欲し得たがゆえに、来世では罪の贖いをするしなかないという大損を得る。小利を得て大損を蒙る。これひとえに求めることを自制せざるがゆえの報いである。だから得ることに汲々とする人たちはこう考えなさい。

自分が今生で貧乏なのは、金持ちになろうとする努力に欠け、得るための戦略に自らの落ち度があったが故ではなく、前世での強欲無慈悲の行いをなしたがゆえの業報であると。貧乏になるべき業があるがえゆにえ、努力が及ばず戦略をも誤つのである。

貧しくなるべき業報だからこそ、求めれば求めるほどに貧しくなる。この貧しくあるべしという業報から逃れる術(すべ)は、求めるという作為を捨てることだ。欲を制し、心穏やかにあるならば、必要なものは自然に満たされ、必要でないものには縁を持つこともない。

ーーーーー

他人と比べ自分にはあれがないこれがないと、心身を苦労させている人はこう考えなさい。

この北の世界(熱いインドからすると)には、気候が穏やかで、自然に穀物が育ち、そこに住む人は飢えることがない。ケガや病苦もなく、寿命はおよそ千年もある。しかしそれより優れた世界がいくつもある。

金輪聖王はその下にある人間世界の全てを支配し、人が望む七つの宝の一切を得ている。その寿命は8万年もある。

人界の上にある天界には、さらに6つの階層があり、その最下層は四天王の世界である。

神(天人)であるからおおよそ福徳に足りぬことなどあろうはずもなく、その寿命は我々の50年を一日としてなお500歳もある。

その上にある忉利天(とうりてん、33天)は帝釈天の住む世界で須弥山の頂上にある。神の王である帝釈天は四天王も日月も我が眷属として従わせており、寿命は実に私たちの百年を一日として1000歳もある。

天界の最上位である第六天の主、他化自在天。その寿命は人間の1千6百年を一日として1万6千歳もある。

到底、人間の福徳と彼らの福徳を比較することそのものが無意味である。

しかし彼らも所詮は人間同様、欲に満たされた心で出来上がった欲界の住人であるため、その福徳もまた前世の報いとして与えられたものである。前世での福徳尽きるとき、天人五衰の悲しみに覆われ、最後は欲に覆われた世界の最下層に生まれ変わる。

欲界の上には、心が生じさせたモノによって出来上がっている色界、心によって形が無限に織り上げられる無色界がある。

色界には4つの世界があるが、そこにいる天人たちは皆この上なく美しい姿形をし身体は眩しいほどの光明を放っている。色界の最下層にある帝釈天は仏によって三界の王と位置づけられている。その寿命の単位は劫(こう、宇宙の誕生から消滅までの期間)で、実に一劫半。

色界の最上位である第四層は一切の存在が消滅する時節である壊劫のときの3つの災いさえも寄せ付けない。

無色界にも4つの階層がある。無色界の住人は形ある存在ではないため、自身は衣食財宝何も必要とせず、しかし心の力で何でも生み出せる。その最下層での寿命はおおよそ2万劫。最上層の非想天では8万劫である。

これらの果報はまことに人の想像をはるかに絶するが、いつか必ず尽きる。のちには悪趣と呼ばれる低い世界に生まれ変わる。すなわち三界に安きことなし、なおし火宅のごとし。想像を絶するような果報に恵まれていようと、火の燃え盛る家の中にいるのと同じなのだ。

私たちの福徳は、それが望み通りに叶おうとも、なお天人にもはるかに及ばない。ならばそのような僅かな取るに足りぬ果報を求めて心身を費やし、他人や世間に悪業を積むような生き方にどれだけの意味があろうか。

その手間暇で、他者と世間に福徳を施し、しかし自身は見返りを求めず、自らの心を整え解脱を得ようと精進する方が、余程意味ある生き方だと思われる。

ーーーーー

とまあ、そのように考えることを教えるのは、自身の欲得を抑え、他人を妬み自らを卑しむ心を制し、もって安心させるためにこそする方便である。しかし輪廻転生が存在する故、ああせよこうせよ、と他人に命じるのは誤っている。方便を実在のように他人に説くことは方便の意義そのものを大きく取り違えることに他ならないからだ。

神仏の存在にせよ、過去生今生来世という三世や上記の三界の別にせよ、すべては我が心を調御するための工夫に過ぎないのである。それで、世の中でこの相談者と同じ種類の苦悩を抱えている人も多かろうと思い、こういう詮なき方便をあえて解説してみた次第である。役に立てばなによりである。

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Unknown (返信)
2010-08-05 09:26:08

欲強き者には欲を捨てよと教え、欲なき者にはときに応じて求めなさいと教えることがあります。これはまったく矛盾した真逆の教えのように思えますが、相手の立場を基軸に据えれば矛盾はないのです。

時に応じ、人に応じ、状況に応じ、言葉として説かれる教えは全て異なりますが、それは言葉がこちらの真意を悟らせ行いに向かわせるための方便に過ぎないからです。

しかしてその伝えられるべき真意とは、自分がかたくなに信じその実在を疑うことも無き自我をもって世界を推し量り事をなすことの根本的誤りに気づかせるためなのです。

たとえば生きているうちに、私自身(人)も私以外のもの(法)も、二つながら実体が無いという、「人法の二無我」の理にめぐり合えば、つまりもし、欲を持つ私自身と、その対象である世界が共に実在しないことを知れば、その自我ゆえに何かしらを常に外に向かって求めているこの欲望もまたどこにあるのだろう、という根源的懐疑が生じてくるはずです。

ところが現実には、この境地にまで至れる者は稀です。それゆえ無知なるがゆえに盲目的な欲望に無意識に突き動かされているほとんどの衆生に対し、欲を捨てなさいといきなり大上段に極端を言い切ることにも意味があるのです。

すでに自覚して自分の中の欲望と向き合えている人には、状況に応じ、もう少し欲を抑えなさい、あるいは世俗への欲求ではなく解脱への欲求を膨らませなさいと、教え導くための時宜方便をさらに使い分けます。

まあ欲求も欲求の対象も欲求を抱く我も、それらは根源的な意味では、ただ心が仮に思い描いた虚構に過ぎないのです。よってその虚構に関して説かれる言葉はすべて方便ということになります。なので不必要に字面に惑うのは愚かなことです。

とりあえず言えるのは、目の前にある言葉の羅列が自身の心を整える工夫として使えるなら使いなさい、さもなくば捨てなさい。そういうことです。

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ーーーーー8月8日追加

Unknown (返信)
2010-08-05 20:17:09

覚者の教えに限らず全ての教えというものは自身の心を整えるための方便であり手段に過ぎません。それで、自分の心を整えることができるなら、それは有効であったというわけです。それだけのことです。それでいいのです。

仏教の知識を詰め込んで難しいなどと言っているようでは、つまり、それを実際の自身の人生に活かすことができなければ、そしてそれを自身の心を整える手段に出来ないのであれば、却って知識を学ぶことそのものが成道の障りになります!おわかりになりますか?

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