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2017年4月23日 (日)

ところが、実際の日本人はあまりにも強い、強すぎる

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集qazx

1268年太宰府にフビライの書簡を持参した高麗人使者が来ます。
当時太宰府は、外国使節が初めに訪れる場所でした。
その書簡には2年前の年号で「元の柵封下に入れ」と記されていた。

元の属国であった高麗は、「書簡を日本に届けよ」というフビライの命令を2年も先送りしていた。

早速書簡は、幕府を通して朝廷に届けられます。

ーー

ここで、これまたいかにも日本らしい国内事情が生まれます。
朝廷は、すでに鎌倉将軍に夷狄を討つ(征夷)役割を与えている。
したがって、幕府に「侵略者を征伐せよ」と命じることは「できない」。

ーー

シラス(統治)は、幕府が決断し、朝廷の決裁を得て実行する仕組みです。

もし朝廷が決断し幕府を動かせば、そのあと発生する恩賞の支払いは、朝廷が行うことになります。

しかし、経済を動かしているのは幕府であり、朝廷には恩賞を支払う能力が無い。

ーー

将軍は、「恩賞等の責任は幕府が負うので征伐を許可してほしい」と朝廷に裁可を仰ぐ。

朝廷は、幕府に征伐の許可を与え、神社仏閣に外敵退散の祈祷をするのです。

ーー

このときの将軍は、第7代の惟康親王です。

しかし幕府の実権は北条氏が握っており、将軍はただの「お飾り」でしかありません。

ですから一切の判断は、執権の北条時宗に任せるしかありません。

ところがその北条時宗は、執権職を譲ってもらったばかりの18歳の若者です。

地位は得ましたが、まだ、幕府内をまとめているわけではありません。

ーー

夷狄征伐には、莫大な費用が掛かる。
戦死傷者への保障も発生します。
それをどうするかがなかなか結論が出せない。

あらかじめ保証の費用を考える。
実に日本的な、事情が生まれた。
そのために返事が遅れる。

フビライは、何度も高麗に使者を日本に派遣するよう命じています。

それは高麗の忠烈王(ちゅうれつおう)から、日本が黄金の国であると聞いていたからでした。

侵略征服すれば莫大な黄金を得ることができる。

ーー

朝廷の意思は明白で外国の言いなりにはならない、ということです。

それで「敵国調伏」の加持祈祷を行っている。

では具体的にどうするのか。

主戦派、穏健派に分かれて具体策がまとまらない。

ーー

一方、フビライは、高麗王(朝鮮人?)は、アテにはならない、支那人の方がマシ、と考えた。

四度目(日本には二度目)の使者として支那人の趙良弼の派遣を決定しました。

同時にフビライは、高麗に6千人の兵を送りこみます。

これは要するに、高麗王が信用出来ないと考えたための処置です。

ーー

6千人もの兵を送られた側の高麗は、その兵たちを食べさせるために、土地や人や牛馬を出さなければならず、そのために過酷な徴税が行われたと記録されています。

この6千人の兵のためにすくなくとも、300万人はいたはずの朝鮮の一般庶民が、草や木を食べて飢えをしのぐまで経済的に追い詰められた。

たった6千人の兵を養うだけで、国家規模の経済が追い詰められるなどということは有り得ないことです。

これは税吏たちが、この6千人を理由に、過酷な徴税をして、私腹を肥やしたのでありましょう。

飢饉に備えて領民のために米を備蓄する日本の武士とは違うのです。

ーー

趙良弼たちは、太宰府に着くと「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」と迫ります。

しかし、朝廷も幕府も相手にしない。

趙良弼は4ヶ月滞在し、いったん高麗に戻り、再来日し、今度は一年間日本に滞在しています。

この滞在の目的は、日本の国力調査で、趙良弼の調査報告をフビライは「大変よくできている」とほめています。

ーー

1274年1月、フビライは高麗に対して日本遠征のための造船を命じます。

高麗はそのための人夫3万5千人と食糧・材料の木材を出すことになりました。

このときも高麗では、庶民の生活が苦しくなり、飢えて死ぬ人も多くいたと記録されています。

高麗は、十ヶ月で大型船三百艘、中型船三百艘、給水用の小型船三百艘、あわせて九百艘の船を作ります。

これは高麗船で、高麗式の外洋の波には耐えられない船でした。

ーー

1274年10月3日、支那兵6千人、高麗兵2万4千人、合計3万の兵を乗せた船が、高麗の合浦を出発。

10月5日には対馬、14日には壱岐に到着して、島民を襲いました。

当時の島民の数は、数千人です。

かなうはずもありません。

対馬・壱岐の人々は殺され、手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれて吊るされました。

食料にするための「干し肉」にしていたのです。

ーー

19日、いよいよ蒙古と朝鮮の連合軍が博多湾に集結しました。

そして翌20日には筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津などに上陸を開始します。

ーー

凝り性の日本人にとって、弓も矢も、凝りに凝った高級品です。

当然、弓矢を持つのは高級武士だけです。
名入りの高級品です。

敵の雑兵に向けて弓を射るなんてもったいない。

雑兵相手には、小石で充分。
なにせ小石なら、地面にいくらでもあるのです。

ーー

日本の武士が前に出て行って、「やぁやぁ我こそは」とやると、いきなり矢が飛んでくる。

ーー

蒙古や高麗の軍は、戦闘には奴隷を使っていました。

つまり元寇の最前線にいたのは奴隷兵です。

奴隷兵は命なんて関係ありません。
もちろん名乗りをあげるなんて習慣はありません。

粗製の矢を雨あられのように射かけてくる。

ところが所詮は奴隷兵です。
指揮官らしい人物を弓で射殺すと、瞬く間に退散を始める。

ーー

こうして始まった戦いですが、一夜明けてみると、蒙古・高麗連合軍の船が一艘もいない。

湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらないのです。

この文永の役についての日本側の記録・八幡愚童記には、「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」とあります。

つまり、日本側が武器を持って戦いに臨んだので、驚いて帰ったのでありましょう。

弱い者は襲うが、相手が強いとみるや逃げる。

これは、七百年前も、近代の戦時中も現代も何も変わりません。

ーー

高麗王は、「我々朝鮮人は、かつての白村江の戦いで、倭人たちをさんざんに打ち破っている。倭人たちは弱く、こちらが戦いを挑めば、すぐに逃げ出す」と言っていたのです。

ところが、実際の日本人はあまりにも強い、強すぎる。
それで、「話が違うじゃないか」ということになった。

高麗の記録「東国通鑑」では、夜半に大風雨があって、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書かれています。

現代の通説では、フビライに、「日本軍が強くて逃げ帰った」とは言えずに、撤退の理由に「大風雨」を捏造して報告したというものです。

ーー

一方日本の執権北条時宗は、蘭渓道隆(禅宗を伝えた宋の坊主)から、

「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまった」と教わり、

無学祖元(蘭渓道隆の後継者)からは

「莫煩悩(ばくぼんのう)」(あれこれ考えずに正しいと思うことをやれ)を教わる。

そして、日本を守るために断固戦う決意を固めています。

ーー

フビライは、「日本軍が強い」とは思っていない。

それで、文永の役の翌1275年4月15日、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を送り届けます。

「前回は大風雨のため撤退したが、こんどは容赦しない、降伏せよ」という内容です。

ところが「国を守る」と覚悟を決めた北条時宗は、竜の口で、杜世忠一行五名全員の首を刎ねます。

そしてさらし首にしました。

時宗はこれによって、戦う決意を国内に明確に示したのです。

ーー

ところが使者を全員殺してしまったので、元の側にはそれが伝わらなかった。

元は翌1279年6月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。

ちなみに杜世忠も周福も支那人です。

要するにフビライは、高麗人を信用していない。

ーー

時宗は、この周福一行も、博多で斬り捨てます。
杜世忠と周福が首を刎ねられたことを知ったフビライは怒り、
「日本を討つべし」と決断します。

ーー

しかし戦争勃発や異民族支配には歴史上合理的な理由があった。

ーー

砂漠では、水のある場所に都市が作られ、城塞都市国家となっていました。

城塞都市国家の運営は、旅人の通行税によってなされていたのです。

ですから、旅人たちは、通行税として物品を取られたり、売りつけられたりした。

これが、立ち寄る都市毎に繰り返されるのです。

それゆえ、シルクロードの交易物は、高価なものに成った。

ーー

遊牧民である蒙古は、それら都市国家を支配下に置くことで、通行税を一定にした。

それをシルクロード商人たちは歓迎し支持した。

それ故に、蒙古が、次々と都市国家を制圧することができ、大帝国になることができたのです。

つまり、蒙古は軍事力を背景に公正取引を推進し、そのことが広く受け入れられたから、大きな地域を支配できた。

ーー

蒙古が広大な地域を支配できたのはその支配に公益性があったからでした。

つまり蒙古のシルクロードでの武力行使には正義があった。

ところが日本侵略は高麗王の悪意にそそのかされ黄金を求めてなされた。

正義のかけらもないものでした。

ーー

とは言え、使者を殺されたとなると、フビライも放置出来なくなった。

元は、1281年(弘安四年)に、范文虎を総大将とする、14万の兵を博多に差し向けます。

これに対する日本の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人です。

小者を入れての数ですから、武士だけならわずか一万騎です。

なんと武装兵力でいえば、十四倍の大軍を相手に日本の鎌倉武士たちは戦いを挑むことになったのです。

ーー

幕府は文永の役を研究して、あらかじめ元軍の襲来に備えて、長大な防塁を築いていました。

14万で襲来したものの元軍は、長大な防塁に阻まれて、侵攻できない。

日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなど果敢に攻めた。

こうして戦線は港内での限局戦となります。

ーー

そして運命の7月1日がやってきました。
旧暦の7月1日は、いまでいう8月中頃です。
この日、北九州方面を、台風が襲いました。
大暴風雨が4千艘の高麗船を破壊してしまった。

ーー

文永の役のとき、無事に帰れた。
それゆえ文永の役の五倍近い戦力もまた高麗船で輸送した。
ただでさえ高麗船は、接合が甘く、水漏れ、浸水する。
そして暴風に易々と破壊されてしまった。

翌2日湾内は、船の残骸と無数の死体で埋め尽くされていた。
当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。

「高麗史」もまた「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と記した。

ーー

高麗史によれば、このとき、生存兵1万9379名です。
士官や将官の死亡率7~8割、一般兵士のそれは8~9割だった。

元の范文虎らは戦意を消失し残った船で元へ引き上げました。
港には、高麗兵士が多数置き去りにされた。
日本武士軍は、高麗兵士におそいかかりました。

戦闘は7月7日まで続きました。

人肉食の習慣のある高麗人を、日本国内に放置することはできません。

捕虜となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録後、ことごとく首をはねています。

ーー

遺体は博多周辺に葬られ今でも蒙古塚とか首塚と呼ばれ残っています。

日本人は「念仏」で供養までしている。

それが、いまも「踊り念仏」として残っています。

ーー

最近の歴史書では、鎌倉幕府は、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった(侵略に対する防衛戦だったために、恩賞の土地が得られなかった)ことから、「鎌倉幕府は、外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと書いています。

ーー

全然違います。

鎌倉幕府の滅亡は、1333年、弘安の役から52年後です。

なるほど幕府は、源氏から足利氏に移るけれど、日本の国体が解体されたわけではありません。

それどころか将軍が交替しただけで、武家政権はその後1867年の大政奉還まで、五百年以上もの間続くのです。

これはつまり元寇によって、武家の信用が増し、武家を施政者として認める風潮が我が国に定着した、ということを示しています。

ーー

文永の役と弘安の役、これは、わずか一万の武家が14万の侵略軍と対峙し、これを打ち破って国土を守ったという事件でした。

つまりこれ以後、武家が国を守る誇り高き志士たちであるという認識を深く日本人の心に刻んだのです。

ーー

さて、元でも高麗でも、その後は、内乱が続いて、元は明に滅ぼされ、高麗は李氏に乗っ取られてしまうのです。

とりわけ李氏朝鮮は、収奪政権としてその後の半島の発展を四百年間もの長きにわたって失わせています。

善意の国日本に学べば栄え、その日本に悪意を持てば滅びるのです。

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