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2017年4月22日 (土)

「自分の正義」のためなら、どんな嘘でも許容されるという人達

ーー以下「ねずブログ、書評」より抜粋編集

森神逍遥著『侘び然(さ)び幽玄のこころ』桜の花出版

副題は─西洋哲学を超える上位意識─である。

「侘(わ)び」とか「然(さ)び」、あるいは「幽玄(ゆうげん)」というのは、日本的な情感を表現する言葉とされています。

これが実に奥行きが深い。

ーーこの書の内容については次のような解説があります。

「侘び然び」については、日本人の精神の支柱と言われながら、日本人の大半がその説明が出来ない。

今「侘び然び」は、絶滅しそうな勢いで、忘れ去られようとしている。

著者は、その「侘び然び」について、真正面から取り組んでいる。

読者は著者から思索へといざなわれ、いま、ここで立ち止まらなければならないと考えるに違いない。

その思索は「日本人とは何か」への一つの答えを提供するはずだ。

日本人の人生を癒やす為に根付いてきたのが「侘び」観なのである。

「侘び」観によって、どのような貧困、物質的に恵まれない状況においても、日本人は、そこに美を感じることができた。

しかも日本人は、四苦八苦する人生に、禅の「本来無一物」を受け入れ「侘び」観を一層深化洗練させた。

無一物が人生の苦悩と悲しみを呑み込んでくれたので日本人は精神性と人格とを高めることができた。

そんな「侘び」観が、天皇から民衆まで日本人すべてに共有され、現代にまで伝えられてきたのである。

神話以来続く日本人の「然(さ)び」を追究する過程は、読者の知的好奇心を刺激してくれるはずだ。

ーー抜粋ここまで

たとえば遠近法がないから日本画は遅れた絵画であり、遠近法で描かれている西洋画は進んだ絵画なのである、と教わったものです。

ところが考えてみると、日本画は意図して遠近法をとらず、様々な位置から物を描こうとしている。

遠近法は、視点が一点に固定されており、一箇所からしか、風景を見ていない。

これに対し日本画では、絵の中で、画家の視点が移動し、見る人に視点を移動することを促す。

そして、その分、幅広い世界を描き出すことができている。

ーー

言ってみれば、西洋画が固定視点型であったのに対し、日本画は自由視点型であった。

だから、日本の絵を見た、西洋の画家たちは、衝撃を受けた。

こんな描き方があったのかと、ゴッホやセザンヌやピカソなど西洋近代画を拓いた人達は、日本画を模写した。

ーー

同じことは、庭園建築にも言うことができます。

西洋庭園、たとえばベルサイユ宮殿の庭園は左右対称に造営されています。

それはそれで美しいのですが、左右対称で最も美しく見える場所というのは、宮殿の玉座の一点だけなのです。

これは、ベルサイユが、どこまでも王のための宮殿であり庭園だ、ということを示しています。

庭園に招かれた人々からではなく、玉座から見たときだけ美しく見えるように造園されているわけです。

ーー

ところが日本庭園では「この一点から」という発想がありません。

それは桂離宮から神社仏閣、あるいはお城や武家屋敷の庭園など、どの庭園であっても同じです。

庭園内の通路のどの位置から見ても、そこが一番美しいと思えるような工夫が凝らしてある。

もっというなら日本庭園は、庭園を「巡りながら」景色だけてなく、風情も楽しむことができるように造園されています。

ーー

ここに西洋と日本の考えかたに大きな違いがあることが分ります。

西洋では、すべては支配者「王」のためのもの。
日本では、すべては「みんな」のためのもの。

という違いです。

その日本人の考え方を「ワビ、サビ、幽玄」で説明できると、著者は書いている。

「ワビ」とは何か、「サビ」とは何か、「幽玄」とは何か、ということを、この本は西洋哲学も比較に加えながら詳しく平易に説明しているのです。

ーー

ーー以下「ねずブログ、書評」より抜粋編集

森神逍遥著『人生は残酷である』桜の花出版

副題は、「実存主義(エリート)の終焉と自然哲学への憧憬」です。

主題は、人間における<自分>と<他者>との関係です。

著者は、生きる意義を「自分だけの正義」に求めてはいけないと説きます。

このことを説明するために著者は、空間とは何か、時間とは何か、意識とは何かといった考察からはじめています。

そして我々の「思考」が、必ずしも、正しい結論を導けていないことを示す。

これが、共産主義者が「自分の正義」を振り回して結局人々を不幸にしたことの原因だとするのです。

ーー

戦後、人々は、自由を求めるあまり、文化や伝統による存在ではない、本来の存在という概念を作り出します。

それを日本語では実存と表記しました。

確かに、例えば日本人は、日本的な習慣や発想を持っていてその中で生活しています。

それは、ある意味で一種の束縛でもある。

そのような束縛を断ち切ったところに、実存があるとサルトルは説明し、広くその説が受け入れられたのです。

ーー

サルトルは、昭和41年(1966)に来日し、彼の実存主義は日本の知識人にも大きな影響を与えたのでした。

それでは、「文化や伝統によらない存在」というのは何か、というと、結局は「自分の正義」つまり「自分の恣意が絶対正しい」ということに成ってしまう。

これでは、社会生活をし、みんなで社会を運営していくことはできない。

自分さえよければ、他はどうなっても構わないとする、そのような考えでは、社会は維持できない。

サルトル以降、日本国内でも、「自分の正義」を主張する、いわゆる「知識人」が現れた。

「自分の正義」のためなら、どんな嘘でも許容されるという人達です。

彼らは、権利は欲するけれど、義務と責任は拒絶する。

著者は、これらの人々の存在は、社会や文明には無用だと言う。

ーー

また著者は、現代の社会問題は、「自分の正義」を主張する人達が引き起こしていると明快に説きます。

このあたりの展開は、実におもしろく、興味深く読むことが出来ました。

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コメント

縦椅子さま
 今日も素晴らしいブログ有難うございます。
 「日本人の四苦八苦する人生を癒すために根付いてきたのが、『侘び』観なのである」とあり、どんな状況にいても、そこに生えている草花にもこころを動かされ、もののあわれを感じるたぐいまれなる美的審美感を持っていることことにより、いつもこころが洗われるような、瞬間にいやされて、なんとかすごせており、「本当に日本人にうまれてよかった!」と思える毎日です。

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