無料ブログはココログ

« 輪廻転生の世界 | トップページ | 日本人が自分たちの「神話から続く文化」を自覚しそれを誇りに思うようになってきた »

2017年3月20日 (月)

苦しく辛い世界を生き抜く勇気を与え励ますために

ーーーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画2011/6/7】永遠の自我と輪廻転生の物語
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/dd37d7e5000515824bc3aa9d62b36396

ーーーーー

「永遠の自我を持ち輪廻転生を繰り返す」という世界でのお話である。例えば牛だった私が、人に食われたか何かで死に、その功徳(くどく)として、人の私に転生した。私は人になったが、ただ牛だったときの母(牛)はまだ牛の世界で生きている。

人である私には人の母がいるが、牛の母もいる。こういう転生が無限の時間の中で、社会に害をなし不幸なもの・貪るもの・理性を持たぬもの・争うもの・喜ぶもの・社会に貢献するもの、などの間で繰り広げられている。たとえ「社会に害をなし不幸なもの」であっても、我が母であったことがありうるわけだ。

そこでは「社会に害をなし不幸なもの」から「社会に貢献するもの」が生まれることもある。命ある存在は、ややこしい関係で幾重にも無限に連なっている。「全ての命あるもの」がそのような奇怪で断ち切りがたい因縁(関係)で深く結ばれている。

現在は毒虫や極悪人と呼ばれる存在でさえも、どこかで、かつては私の最も愛惜(いと)しい人であった。今はそのことを微塵も覚えていなくても、事実そうであったに違いないと考えられるような世界でのお話である。

ーーーーー

そのような世界では、許すべからざる悪をなすもの、他人を傷つける者も、その被害者もかつて私の愛した者たちであった可能性が出てくる。

ーーーーー

永遠の自我を持ち輪廻を繰り返す者の運命として、遅かれ早かれ人は敵にも味方にも転生し得る。その中で人々は結び付けられあっている。そこには無限の時間、織り綴られてきた縁(関係)が存在している。

輪廻転生の世界の中では、かつて母と子であった者が、互いに形と立場を変えながら殺し合い、あるいはかつて殺しあったものが母と子になり互いを慈しみ合う。それゆえ人は、今この時の関係故に憎しみに引きずられてはならず、また今この時の関係故に愛におぼれてもならないことになる。

ーーーーー

それでは、我々は、もはや憎しみも愛も、それを生じさせている自他の関係も、そして自身の実在さえも、一切が虚妄であることを認めて、輪廻転生の世界より静かに永遠の沈黙に向かうべきなのか。

これは、どちらが正しい、どちらが価値があるという問題ではない。絶対なものは何も無いからだ。自由に考えれば良い。

ーーーーー

ただもし、永遠の自我を信じ、自分というこの意識とともに永久の輪廻を生きて行くのなら、人は孤独ではない。「全ての命あるもの」と切り離しがたく結ばれ、「全ての命あるもの」と運命をともにすることになる。

そこでは情は味方になることもあれば敵にもなる。というより情に支配され翻弄されることを覚悟するしか無い。その世界では神さえもそうなのである。なかなかしんどいことであるが、まあ仕方ない。

ーーー

ーーー

そして徹底さんは、輪廻転生に関連する、因果応報について、

「生きとし生けるものに、この苦しく辛い世界を生き抜く勇気を与え励ますためにこそ、この様な教えは説かれる意味がある」と、以下の様に書いておられる。

ーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画2/20】前世の業の報いとかhttp://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/5e209ea2d42a8e4731362ffc2a772dcd

ーーー

すなわち、前世が現世に、あるいは現世が来世にどのように影響するかという文脈で語られる超時空的な因果律とはこういうものだ。

施しをなしたものは、多く受け取ることになる。寛容であったものは、慕われ地位を得る。ねたみそねみをしなかったものは、美しくうまれる。賢く強くあらんと望み克己努力したものは、優れた才覚を得る。利他に尽くしたものは守られ、慈悲あったものは慈悲が与えられる。

ーーー

とかく人間というものは自分の幸福は自分の才覚努力のおかげと慢心増長し、不遇にある人に対しては努力が足りないのだと、蔑み(さげすみ)足蹴(あしげ)にする性根を持ちやすい。

それは人間の心を蝕んでやまない病=無知・無自覚・無反省・無慈悲の病であるといえる。

その病に罹る(かかる)と、通常、酷い困窮や惨めな境遇に陥る。その無知・無自覚とそれによってもたらされる境遇の繰り返しこそが輪廻である。

だから人間は、自分の幸福に奢らず(おごらず)、他人の不幸を嘲らず(あざけらず)、生きる方が良いのである。

つまり因果応報(輪廻転生)は、かたくなな人々の心を懐柔し良導するための方便として使われる。

ーーー

前世に功徳善行を施したものは現世において恵まれた生活をすることができる。これが因果応報という考えだ。もちろん、恵まれた生活というのは、受け取る側の主観にもよる。

しかしもし輪廻転生し、過去との間に因果応報という形で現在が存在すれば、現在は現在によって絶えず変更を迫られ、単一に収束できない。つまり現世は定まらず、実在して居ないことになってしまう。

つまり、現在の不幸が過去の罪業の故であるというためには、現世が夢幻(ゆめまぼろし)で、この我が身・我が人生もことごとく虚妄であるという前提が必ず必要になるのである。

ーーー

ゆえに、前世や因果応報を信じることは、それはそのまま眼の前にある現実の否定、今ある自分の存在の全否定に直結することになる。

だから、私達が自身の生存を事実として肯定し、現実を実在するものとして認め、その前提の上で生きることを望むのであれば、前世や因果応報(輪廻転生)を決して信じてはならないのである。

ーーー

このことが理解できているのなら、なお輪廻転生や前世と現世来世の関係その物語に言及することも許されよう。

ーーー

例えば、この現実が虚構の舞台で、自分の人生がそこで演じられる役柄であるとする。たぶんこの舞台の前には、違う舞台が演じられていた。

以前の舞台では、自分は貧しく醜く、才覚にも乏しい病者の役で、存在価値のない端役であった。さてところでである。その舞台の演出者は、どういう意図を抱き持っているのであろうか?

演出者はひとえにこの世界=舞台をより良いものにしていこうとしている、世界を「究極の完成」に近づけようとしているに違いないのである。

「究極の完成」がどういうものであるのか、役者には分からないところが問題なのだが、いずれにせよ、そのような恣意的な関与が許されるのは、世界が虚構の舞台であり、人の人生が割り振られた役に過ぎないからである。

ーーー

それでは、世界が虚構の舞台であるとして、いま与えられている境遇や人生について、さて自身どのように考えどう捉え、どういう生きる姿勢を持つことが、自分自身の人格形成にとっても、この世界の行く末にとっても建設的で有意義なことなのだろうか?

たぶん多くの人にとって、今の自分や自分の人生は不本意で、ときに生きるのを続けるのさえしんどく辛く、あまたの屈辱や失望、無力感を経験していることと想う。

それでも生きている限り何かできることはある。たとえわずかでもできることはある。

いまここで自分の両手のなかにあるものを、それがいかにわずかであっても、可能な限り工夫し上手に活かし用い、何か自分や他人に意味あることをなすために、有効に用いようと願う事はできる。

実際に何が出来るのか、それが何の役に立つのか、それは本質的にどうでもいい。そういう算段に心悩ます必要は一切ない。

むしろそれは夢の中で夢の中と知らぬまま成果を追い求め必死にあえぐようなもので、どこまでも無用な雑念や妄念にすぎないからだ。

大切なのは、自分という存在をもって何か意義あることをしたい、誰かのためにわずかでも役だちたい、そう迷いなく純粋に心から願うこと。

それが自分の心の中にあるかないか、その一点だけなのである。この誠実で混じりけのない純粋な思いや願いを、本願とも発意(発願 発心)ともいう。

ーーー

もしこの世界が夢幻であり、人々や無数の衆生の心、その願いで出来上がっているものなのだとすれば、そこであなたが抱く本願や発意は、同じ願いを抱いた過去現在未来に生きた他のすべての衆生の心や願いとも、当たり前のように共鳴を起こすことになる。

そのことによって、あなたはいつかかならず世界の運命、人々の運命そのものをその願う方向に導く大いなる光ともなろう。

と、まあこのような結論を導くために、本来は輪廻転生や因果応報の教えは説かれていたのである。

すなわち生きとし生けるものに、この苦しく辛い世界で、私利私欲だけではない生き方を、生き抜く勇気を与え励ますためにこそ、この様な教えが説かれていることになる。

ーーー

« 輪廻転生の世界 | トップページ | 日本人が自分たちの「神話から続く文化」を自覚しそれを誇りに思うようになってきた »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

縦椅子さま
 いみじくシェクスピアが"Life is a stage"といった内容のブログありがとうございます。
虚構の舞台の上で男性の役者ならリヤ王や、ハムレットやマクベスを、役に徹して演じ、女性の役者なら、オフェリアや、ジュリエットを精一杯演じるというところでしょうか。悩みぬいた人物を、自分の心のままに演じる役者の悩みは、際限なく演じ続けなければならないことー物には終わりがあるはずなのに、虚構世界では終わりがなく、役者は疲れ果ててしまう。人間世界では、必ずと終わりががあって、その終わる瞬間まで「自分という存在をもって何か意義のあることをしたい。誰かのためにわずかでも役立ちたい、そう迷いなく純粋に心から願いつつ」居れたら、最高の舞台を務めたことになるでしょう・・・と思いました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 輪廻転生の世界 | トップページ | 日本人が自分たちの「神話から続く文化」を自覚しそれを誇りに思うようになってきた »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31