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2017年3月23日 (木)

ツァラトゥストラはかく語りき

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツの哲学者・古典文献学者である。今日の小論は、この男にまつわるものであり、理解するために、少々解説が必要になる。

つまりニーチェは、生存することの不快や苦悩を「終末の解決」に委ねてしまうキリスト教徒の考えを悪癖として否定し、世界は終末に向かって動いているのではなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観を提示した。

彼は、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想つまりキリスト教思想に死を告げた。

彼は、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされており、その恨みという負の感情こそが苦悩の原因であるとした。

さらにはニーチェは、恨みの感情に満たされたキリスト教精神、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。

そして既存の価値から離れ自由なる精神を獲得し、すべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けて、「超人」になることを目指した。

ここで超人『ツァラトゥストラ』は、ペルシア語でのザラスシュトラの呼称をドイツ語読みしたものである。日本語では英語名の転写ゾロアスター(Zoroaster)の名で知られるが、これは古典ギリシア語での呼称であるゾーロアストレース(Ζωροάστρης, Zōroastrēs)に由来する。

ザラスシュトラ(アヴェスター語:Zaraθuštra、ペルシア語: Zartošt ,زرتشت‎、紀元前13世紀?~紀元前7世紀?)は、ゾロアスター教の開祖であり、近年の研究では、前10世紀から前11世紀にかけて活躍したといわれるが、研究者によって異なる。

一神教を最初に提唱したともいわれるが、ゾロアスター経典の中には、古代アーリア人に共通する多くの神々が登場する。したがって、正確には「数多くの神々の中から、崇拝に値する神をアフラ・マズダーだけとした」人物である。

その教えは、ユダヤ教、キリスト教に影響を及ぼし、根拠はないが初期仏教にも影響を及ぼしていると一般に言われる。その影響力の大きさについては、絶対視するものから、かなり限定的とするもの、まったく皆無であったとするものまで、さまざまである。(以上wikipediaより)

さて日本の「ツァラトゥストラ」は、どのように語るのか、それをお目に掛ける。

ーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画12/6】ザラスシュトラはかく語りきhttp://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/3c007c3dedaf3db7382d15a507bd1fe6

ーーー

人間存在の上位に何かしら超越的存在ないしその意思を感覚すること、それは、そういう超越的存在ないし意志が実体を持つ・あるいは実在していると信じることとは、決してイコールではない。

純粋なる神の意志なるものが実在するとすれば、それを人間が理解し得るなら、蟻もまた神の意志を理解できるはずである。

ならば聖職者諸君、汝らは蟻に向かっても、汝らが神の意志だと強調して止まないバイブルやコーランを読み聞かせるべきである。

バイブルやコーランが神の意志だとする君たちの宗教においては、そうすることこそが正当であるはずだ。

ーーー

おそらく、人間が生きていく上で心のなかに何らかの超越的存在ないしその意思を感覚すること、それ自体は、私たちの遺伝子に組み込まれている感覚なのだと想う。実際、それにはいくつもの有用性がある。

ーーー

この世間の中で人が生きていく上でこそ、神を想い描く意味があるというものなのだ。超越的存在ないしその意思を感覚することが、自分や世間に秩序をもたらす原因となっているからだ。

また超越者の存在を想うことで、人間は謙虚に生きることができ愛されるべき存在となりうる、また死すべき身の彼方を見据え、絶望の苦しみや死の恐怖を和らげることができる。

ーーー

しかし有神論者は、「まず神ありき。つぎに神、人を創りにけり。さらに人、世間を作れり」と主張する。ここでの神は、人と世間の存在に無関係に存在している。神は人と世間が存在しなくても常に神として存在している。

ここでもし人も世間も存在しなければ、どうなのだろう。誰もいないのに、だから世間もないのに、神は、誰に対して何に対して、自身が神であると主張できるのだろう?人がいない、世間が存在しない、その時点で神は消え失せるに違いない。

ーーー

神の存在は、人と世間の存在に依拠する以外ないのである。それを言い換えると、神と人と世間とは、互いに縁起している、と言える。

縁起とは、原因や条件を表し、一方がなければ他方が成立しないという意味である。つまり、神と人と世間とは不可分一体である。

恐らく有信論者の神の実在は、人が規則を作り出すことが困難であった時代の物語なのだろう。古来人は、神が定めたということでその規則を守るべきものであるとし、その規則に基づいて社会を作ってきた。

しかし、もう人が規則を決めることに何のわだかまりもなくなっている。煩悩に満ちた人間、汚穢にまみれた世俗の我々が、法を堂々と作り、社会を作り上げている。

ーーー

ここに至ってもなお有神論者が、神の実在とその法を主張し、人間に規則を提示するとすれば、現在先進諸国の法体系は破壊されねばならず、現在先進諸国の世間は滅ぶ他無くなる。

事実、神の実在を主張する、特に一神教の教えは、イスラム教徒やユダヤ教徒に見られるようにそれが広まるほどに人と世間を混乱に落とし入れる。

おそらくゾロアスターを始め、古代ユダヤ人、イエス、モハメッドに至る一神教の教祖たちは、例外なくその知性と精神性があまりにも低く劣っており、ためにそのような自身が抱える問題を自覚することは殆ど無かったのだろう。

この結論は、神に実体なしと認め、心のなかに何らかの超越的存在ないしその意思を感覚し謙虚に一生を全うすることこそが、神を正しく信じたということなのである、と言えよう。

ーーーこれはまさに古来から日本人が生きてきた生き様そのものである。

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