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2017年3月 4日 (土)

この人は、実は日本人嫌い?

司馬遼太郎と言う人は、文芸春秋の巻頭を飾る文を長らく書いていた人物であり、およそ日本が大好きな人物であるとされている。しかし、小生などは、彼の書く巻頭文を読むほどに、この人は、実は日本人嫌いなのだと思うようになっていた。

それは彼の小説「故郷忘じがたく候」を読んだ時にも強く感じたものだ。その思いを一にする人物が居ることを発見したので、編集してお目に掛ける。NHKは、ここでも日本人を貶める工作をしている。

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司馬遼太郎、沈寿官、NHK合議の詐術、欺瞞満艦飾の「故郷忘じがたく候」酒井学(種子島・佐倉)http://kamomiya.ddo.jp/%5CSouko%5CC01%5CTinjukan%5Csibahiha.htm

ーーーーー編集qazx

司馬遼太郎は、「龍馬が行く」「坂の上の雲」「空海の風景」などを書いた、人気歴史小説家であり、平成三年度の文化功労者に選ばれている。しかも小説家としてだけでなく、歴史家としても一目も二目も置かれた存在となっている。

司馬遼太郎は、「司馬遷に遼(はるか)及ばず」の意味の筆名であるらしい。司馬遷は、言うまでもなく「史記」を著した歴史家だ。朝日新聞、平成三年十月二五日タ刊の記者は、「独自に資料や文献にあたり、歴史や人物を展開する手法は『司馬史観』と称される」と書いている。

しかし、彼には、不思議な著作がある。「故郷忘じがたく侯」(文芸春秋社、昭和四三年刊)がそれである。

同書は、豊臣秀吉の朝鮮征伐の際、日本にやってきた鮮人陶工たちを描いたものだ。そして彼ら陶工たちは、鹿児島・苗代川(現・美山)に住みつき、薩摩焼を完成するのだが、故国を思う気持ちを持ち続けたと書いている。

問題は小説とは言え、大半が嘘で固められていることである。司馬は、在日鮮人の主張そのままに、これら陶工たちが強制連行されたうえに、日本人から差別され続けたと書いているのである。

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このモデルとなった人物は、「薩摩焼宗家十四代沈寿官」である。以下十四代と記すが、まず司馬が、十四代の経歴を書いている部分をお目に掛ける。

「鹿児島県旧士族沈寿官家はその朝鮮風の姓名が世襲であり、戸籍名であり、むろんいまの第十四代の当主もその名なのである(p8)」「薩摩に連れて来られて以来、江戸時代からこんにちにいたるまでついにその姓名をかえようとしていない(p9)」と。

しかし実際は違っている。14代は、吉本恵吉、大正十五年十二月三日生れ、吉本祐康とその妻テイの実子。と戸籍には記されているからだ。テイは十三代の実妹。その後、昭和三一年二月二二日に大迫エダ(実母・ハマノの母)と養子縁組をし、以後大迫姓と成っている。

十四代が沈姓になったのは、実父十三代の死(昭和三九年三月三一日)の前日、妻と共に実父・実母の養子となってからだ。しかしそれから半年も経たないうちに大迫姓に戻っている。(このあたりは、原文が説明不足のため小生には良く分からないqazx)

従って、旧制二中入学時の姓名は吉本恵吉であった。ところが、司馬の小説内では次のように表現されている。

入学早々、上級生が数人やってきて、「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」とわめいた(p40)。上級生たちは「新人生名簿によって韓姓の少年がいることを知った」のだった(p41)。その後、「沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、十人ほどが寄ってたかって殴った」(p42)

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十四代は、昭和三一年長女出生の届けを東京都で、昭和三四年長男のそれを横浜でしている。昭和三六年三月三一日次女出生の届げ出が初めて鹿児島でなされている。従って十四代が東京から帰鹿したのは昭和三五年以降のことになる。

つまり、十四代は、一時期、東京や横浜で暮らしていたことになる。それでは実際の十四代の経歴はどうなのか。昭和二〇年十四代は旧制中学を卒業すると鹿児島医専(現鹿大医学部)に入学したが、中退。その後、早稲田大学政経学部に入学し卒業しているのだ。

そして、鹿児島選出の自民党代議士・床次徳二氏の秘書となっている。その秘書稼業をやめ、帰鹿し窯場の苗代川に落ち着いても十四代が作陶に精出している姿を地元の陶工家で見た者はない。

十四代は政治向きのことで奔走していたのだ。昭和四六年、四七年には大迫恵吉の名で鹿児島県PTA連合会会長となっている。そういう下地を作ったあと十四代は参議院選挙に打って出る準備もしている。

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しかし司馬遼太郎は、昭和四三年刊行の著書の中で、十四代は十三代に「少年のころから作陶の技術を教わった」と書いているのである。ところが十三代は京都帝大法科を卒業したあと朝鮮総督府の役人をやり、戦後は郷里で村会議員をしていたのだ。

つまり十三代は、陶工と言うよりも、役人であり、議員であり、十四代に作陶技術を教えることなど出来なかったのである。

さらに明治になるまで苗代川の陶工たちは島津藩の指示のもと、共同で雑器類を焼いていた。従って宗家などというものがあったわけがない。司馬は、このような十四代を宗家と呼び名工扱いして次のように書いている。

「黒薩摩は民間需要に、白薩摩は島津家御用のみ、と規定されてきたが、ただ黒にも、例外があり、御前黒という、肌質に、黄金の梨地が沈んだような玄妙な黒ものだけはかたく御用とされ、その秘法も一子相伝の口伝とされてきた。十二代は十三代に口伝をあたえることなしに死んだためにこの技法は絶えた(p48)」が、十四代は家伝の書から推測することで、御前黒を再現したのだ、と。

しかし御前黒の呼称は、鹿児島の人が降る雨を島津雨などという類のものである。「御前黒」なる代物など他の窯でも焼けるし、普通に焼かれていたものである。

つまり十四代は決して特別な名工などではない。この事実は別の面からも証明出来る。

鹿児島県で最も権威のある陶芸作品発表会は、昭和四八年から始まった、鹿児島陶芸展であるが、この陶芸展には十四代と同じ運命を辿ってきた鮫島佐太郎、荒木幹二郎の名は頻繁に出てくるものの、十四代の名は受賞者欄にも、賛助出品者欄にも一度も出ていないのである。

ちなみに鹿児島陶芸展の当時の審査員は東京芸大の人間国宝・藤本能道ら錚々たる(特に優れた)人たちであった。

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司馬自身が「鹿児島県旧士族沈寿官家」と書いているように、苗代川の陶工達は明治になるまで島津藩の保護を受け、士分の扱いを受けていたのである。

また苗代川出身者は明治になり、全ての日本人が姓を持つようになった際、日本姓に変えたあと、政界、教育界、軍関係で人材を多く輩出している。その頂点に立ったのが、戦時中の東郷茂徳外相である。彼の父、朴、製作の陶器が今も美山には残されている。

司馬は、これらの事実を無視するかのように、小説の中で、沈寿官の口を通じて、渡来後の三百七十年間、日本人の迫害を受け続けてきた、と書いているのだ。司馬は、歴史の名を騙って(かたって)ウソ八百を書いていることになる。

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司馬遼太郎は文化功労者に選出されたおり、「日本人とは何かという問いかけによって歴史に目を向けた」と語っている。しかし少なくとも、「故郷忘じがたく候」は、どう考えても、歴史を捻じ曲げている。むしろ「日本人とは何かという問いかけに」誤解を与えるものになっている。

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司馬は、勉強家で、多くの人から、独自に資料や文献にあたって居ると考えられていたはずだ。読者も、詳しく書き込まれている彼の書く内容は、根拠の確かな史実に違いないと見なしてきた。ところが、「故郷忘じがたく候」の内容は、ウソ八百のデタラメだった。

下手をすると彼の作品全体が、単なる小説になってしまう、そのような危険をおかしてまで、なぜ司馬はこのようなデタラメ作品を書いたのだろう。

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十四代が、政治好きであったことは、上記した彼の経歴を見れば良く分かる。実際十四代は、昭和四一年、南鮮情報局KCIAの招きで渡南し、朴大統領に会い、ソウル大学で講演している。が、陶工・薩摩焼きの第一人者の肩書はない。司馬は、「ソウル、釜山、高麗の三大学の美術史関係の研究者に招かれて渡南した(p59)」と書いているだけだ。そして、十四代は南鮮名誉総領事代理を勤めている。

十四代は昭和五二年に東京で個展を開いた。その個展には、司馬が駆けつけ、作品の一つに井光黒(いかりぐろ)と命名し、十四代を「五〇歳を迎えた今、新しい自分の領域を広めて世に向かうことになった」と絶賛する。十四代の作品は販売され、売れ残りは鮮系パチンコ屋が買い上げた。

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十四代はNHKテレビに出た際、在日鮮人とされたことがあったが、抜群の演技力を発揮すればするほど、在日鮮人として扱われることになる。嘘を吐くのは止めて欲しい。司馬も同様である。 鮮系日本人である呉善花氏が「スカートの風」の中で、鮮人は朝鮮陶芸が駄目になったのは、秀吉が朝鮮から陶工を強制連行したからだと言っているが、実際は鮮人が陶工を蔑視していたからだと書いている。

NHKは、十四代のインチキをそのまま「沈寿官の世界」で放送した。恐らく、地元を取材しているだろうから、インチキを分かって居て放送したものと考えられる。これは、NHKが、その運営資金を日本人から集めていることを考えれば、犯罪行為以外の何物でもない。

ーーーーー追加100506

388 :イラストに騙された名無しさん:2009/10/07(水) 00:49:26 ID:7goBkq01
月刊日本 2009年10月号福井雄三 国家意識の希薄化と司馬史観
ttp://www.fujisan.co.jp/product/1224061/

福井氏が以前、『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実―明治と昭和の虚像と実像』の中で司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』を論じたところ、読者から手紙が寄せられた。それによると、沈寿官が旧制鹿児島二中(現・甲南高等学校) に入学して最初の日に、朝鮮人だということで上級生に呼び出され、凄惨なリンチを受けたエピソードについて、沈寿官が大嘘吐きか司馬が作り話を書いているかのどちらかであると言う。

イジメどころか、当時、 沈寿官は喧嘩三昧に明け暮れた番長クラスのボスだったそうだ。それで、同中の同窓会では、司馬を名誉毀損で訴えたいという怒りが湧き上がっていたそうだ。

だいぶ前、週刊新潮も、司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』で描かれた沈寿官への日本人の凄絶なイジメの話とかは実は嘘で、沈寿官の親類筋の証言として、実は先輩の彼女に手を出してリンチされたとか、彼は有名になってからも料理屋の女将に襲い掛かったとかの話の記事を載せていた。あと、「薩摩焼宗家」という称号も事実に反し、薩摩焼関係者からクレームが出されていると。

389 :イラストに騙された名無しさん:2009/10/07(水) 10:56:18 ID:kIHdKQQr
400年経っても鮮人の血筋は嘘つきで暴力的で強姦魔なのかもう完全に遺伝だな

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コメント

司馬遼太郎は、日本ぎらいかもしれません。
NHKが、結構司馬史観を取り上げ、ドキュメントやドラマを放送している事実から見ても、左寄りの人間でしょう。
黒岩重吾の古代史や松本清張の古代史物を書いている作家の方が、真面に見えます。
戦後の新聞テレビが執拗に取り上げる歴史作家は、眉唾と思っています。

[日本は「売国天国Ⅱ」]

それとマスゴミの最大のペテン行為は、GHQによって日本の歴史が完全に書き換えられているのに、それを正すどころかその大嘘の上に便乗して日本悪しかれ史観を流し続けている点でしょう。朝鮮戦争勃発後に対日観を180度転換したマッカーサー発言やニクソン副大統領(当時)の「(日本弱体化を狙った日本国憲法の押し付けは)善意の過ちだった。敵を間違えた。」発言などの日本の為になるトピックは全く報道されていません。 保守論客としても有名な、お茶の水大教授の藤原正彦先生は「私は日教組の嘘に気づくのに20年かかった。」と言っておりました。あれ程聡明な方でも騙されてしまうわけですから大方の日本人は自国の異常性に全く気づかずにいるわけですね。11/02 06:21 By:ワルダー
http://pigzhina.blog122.fc2.com/?mode=m&no=121&m2=res&page=3

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