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2017年2月23日 (木)

明治新政府は近代国家としての基盤をわすか数年で作り上げた

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

林羅山は、18歳のとき、宋学(朱子学)を読んで感動し、仲間にその注釈を講じはじめます。

このことを知った清原博士という人が、徳川家康に、「昔から勅許がなければ、新書を講じてはいけないしきたりである。いわんや、市井の者が講ずるなど生意気で、おこがましい」と進言します。

家康はこの言をしりぞけ、むしろ、「新書を講じようとする若者にこそ見どころがある」と評し、いくばくもなくして、羅山を城に招き、講義をさせました。

ーー

講義を聞いた家康は羅山を顧問にします。羅山23歳のときのことです。

この後、羅山は、方広寺の鐘の銘に「国家安康、君臣豊楽」を見つけ、これは、徳川家を呪詛するものだとし、豊臣家を叩く口実を家康に進言しています。

こうして家康は、夏の陣を起こし、秀頼を切腹させ、天下人となるのですが、羅山は、その徳川幕府の土台作りに深く関わっていきます。

羅山は、上野不忍池に忍岡聖堂という学問所を開設、これが後に神田の昌平坂に移されて、昌平坂学問所となりました。

いまも、そこには湯島聖堂が遺されています。

こうして羅山は幕府官学の開祖と呼ばれるようになります。

ーー

寛永のある年、井伊侯が羅山に問うて曰く、「人は漢の高祖の時代の猛将・樊噲(はんかい)の勇気を称えるが、勇気なら私も負けない」と。

羅山、答えて曰く、「樊噲(はんかい)が称えられているのは、戦に強かったとか、武勇に優れていたからではありません。相手が高祖であっても、堂々と諫言を行ったからです。これは実に大勇者でなければできないことです」と。

「その身を矢や投石にさらし、敵をしりぞけ、首を斬り、旗下の急を脱することも、もちろん勇ですが、それは鎧武者を連ねて指揮を執る者ならば、誰もが行うことです。それだけでは、君はその将の言うことを聞きません。外に向けての攻撃ではなく、自らの内側から省(かえり)みる心がなければ、君は、将の言うことは聞かないものなのです」

これを聞いた井伊侯は、「まことにその通り、私はまだまだ樊噲(はんかい)に遠く及ばない」と返したのだと言う。

ーー

羅山の、宋学(朱子学)の特徴は、それに日本古来の神道を結びつけていることだ。

たとえば「三種の神器」を「智・仁・勇」の象徴として提示しているのです。

日本的価値観のもとに、儒学を学ぶ、もっといえば、この世の中を、王道楽土にしていくために、礼節があり、法があり、敬神があるとした。

日本の文化の中で学ぶのでなければ意味がないといことなのです。

ーー

羅山は、人は天理を受けて生まれてくるのだから、もともとの本性は、善だという。

ところが人々は、金銭欲や名誉欲や性欲など欲望の虜になり、悪となる。

欲望自体は、決して悪いものではないけれど、それに押し流されることがあれば、悪となる。

だから、人としての正しい生き方を知ることによって欲望に流されないようにする。それが学ぶことの意義である、と羅山はいうのです。

ーー

羅山は、家康・秀忠・家光・家綱と四代の将軍に仕え、明暦3(1657 )年、75歳でこの世を去りました。

羅山が、強力な幕藩体制を築こうとしたのは、二度と乱世に戻らないためだったのです。

ちなみに「羅」という字は、鳥を捕える網を意味します。林羅山は、林で山を捕えると言う、大困難に挑戦する意気込みを込めた名前であると申せましょう。

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集

石平『なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか』(KADOKAWA)

支那知識人は、598年~1905年、即ち隋から清まで、1300年間、朝鮮知識人は朝鮮以来の500年間、

官吏登用制度である科挙によって論語の「全内容を丸ごと暗記し、その思想的内容を自らの思考と知識の中核に」してきた。

こうなると「論理的思考も実証的考察も一切いらない」。

それゆえ、支那・朝鮮の「思想的知的風土」は、「産業化、近代化を生む土壌としての『科学の精神』が育ってくることは、あり得なかった」。

ーー

支那同様日本も漢字を使っているが、文化的には全く異なっていたのである。

ーー

同じ論語が、支那と日本では全く違う解釈がなされていた。

江戸時代には、支那とは全く別の日本独自の文化が花開き絢爛を極めた。

今でも観賞に耐える、芭蕉の俳諧、西鶴の人形浄瑠璃、写楽の浮世絵、若沖の絵などが陸続と出た。

突如、やってきた黒船によって、開国を余儀なくされる前に、列強の事情がオランダから幕府の下にいち早くもたらされていた。

その情報を基に、それに対する対策も立てられて、日本国内はその議論で沸き返っていた。

ーー

蒸気機関を動力として使うことで大量生産に成功し、強大な武力を手にしたイギリスが、アジアの植民地支配に成功する。

「イギリスやフランスなどの西欧列強が支那市場の開拓に没頭しているあいだ、日本に対して興味を持ち始めたのは、新興産業国家のアメリカだった。(中略)燃料、食料の補給地として日本の港が必要だし、支那以外の新しい市場として、日本は魅力的に映った」
 
夷荻襲来の予想は江戸末期から樺太や沖縄に出没していた外国船の動きで察知されていた。

ーー

江戸幕府は砲台を各地に大急ぎで建立したが、日本は、瞬く間に近代兵器を模倣し、開発している。

薩摩は英国と長州は英米蘭仏とそれぞれたった一藩で挑んでいる。

アジアで、圧倒的な火力を持つ西側列強に挑んだところはなかった。

「諸藩のなかで率先して最先端の武器を導入し、軍事力を強化してこのふたつの藩は大胆にも、西欧列強に対する軍事的攻撃を仕掛けた」

これは貴重な体験となって、薩長両藩はやがて同盟を結び、公武合体論だった政局を倒幕、そして明治維新へと促した。

ーー

先覚者としての水戸学の藤田東湖、会沢正志斉のもとに吉田松陰や西郷隆盛が蝟集し始め、福井には橋本左内、横井小難が、尊王を説いた。

そして長州では高杉晋作率いる奇兵隊が暴走をはじめ、薩摩では西郷隆盛、大久保利通が台頭した。

薩長同盟が成立するや、官軍となった薩長軍は、鳥羽伏見の戦いに、錦の御旗を翻すことで、兵力が十倍の幕府軍を敗走させる。

ーー

1867年に大政奉還が成ると、翌1868年に興った明治新政府は電光石火の如く、中央集権化、貨幣の統一、そして富国強兵を国是に改革を急いだ。

「明治2年に版籍奉還、廃藩置県を一気呵成に成し遂げ、明治4年からは地租改正、明治5年には近代的教育制度の制定、そして明治六年には兵制改革と徴兵令を交付し、近代国家としての基盤をわすか数年で作り上げた」

片や、支那・朝鮮は、21世紀の今日になっても、依然として明治政府が成し遂げたような真の意味での近代化が出来ないでいる、と石平氏はいう。

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