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2017年3月27日 (月)

移民受入、治安維持、国民の自由、この三つを同時に実現することはできない

ーー以下「三橋貴明ブログ」より抜粋編集

2017年2月20日シンガポールにいます。

まるで、巨大なディズニーランドのような国。白人、日本人などの観光客と、人種が入り乱れる、おとぎの国。

意外にも、日本人観光客が多いのは、他の東南アジアの国々とは異なり、ゴミ一つ落ちておらず、治安が徹底的に維持されているからだと思います。

人口の七割が支那系、残りがマレー系とインド系と、元々が多民族国家であることに加え、フィリピンやインドネシアなどからの出稼ぎ、ある意味で「グローバリズムの理想郷」のようにも見えます。

シンガポールは、「外国移民」と「治安維持」を両立させている、大変、珍しい国です。

ーー

しかし何事もそうですが、現地に行かなければわからないことが多い。

ーー

日本人のわたくしからは、シンガポールが、「外国移民」と「治安維持」を両立させている代わりに、自由を失っている風に見えるのです。

ここでいう自由は、施先生の仰るリベラル・ナショナリズムにおける自由になります。

施先生によると、 日本が、「日本語」のビジネス・文化を拡大しているため、「国民が比較的「職業選択の自由」を享受できている。

つまり政治学的に「自由」とはこれらの「選択の自由」を意味」する。

ーー

シンガポールの人々(移民を含む)がリベラル・ナショナリズムつまり「国民としての選択の自由」を失っているように見えたのは、

1、英語が話せなければ、職に就けない。ちなみに、シンガポールの公用語は英語、北京語、マレー語、タミル語の四つ)
2、フィリピン人、インドネシア人等の出稼ぎ外国人とシンガポール人の間は、露骨なまでの「階級格差」がある
3、子供たちは小学六年生の時に「PSLE」という試験を受け、成績次第で「人生」が確定してしまう(その後もテストが繰り返され、最終的に勝ち抜いた子供だけが大学に行ける)。

さらに、様々な規制がある(酒、タバコの持ち込みを規制。ガムは持ち込み禁止。ガムを捨てると罰金など)わけですが、この手の「ルール」を守るのは難しくないと思います。

私個人が、シンガポールで「不自由」と感じたのは、1、2、3、です。すなわち、政治的不自由と、人生の不自由です。

ーー

また、出稼ぎ外国人メイドは、
「半年ごとの検査で妊娠していたら国外追放」
「結婚できない」
「今は改善されたが休日を採ることも難しかった」
「劣悪な居住空間しか与えられない」

と、日本であれば、左翼の先生たちが「人権侵害だ」と、大騒ぎしそうな境遇に置かれています。 

いずれにせよ、シンガポールのフィリピン人メイドに「自由」はありません。それでも、祖国と比べれば所得を稼げるため、フィリピンやインドネシアの女性はシンガポールに働きに来ます。

また、道路を清掃しているインドネシア人は、トラックの荷台に載せられ、運ばれています。日本同様に綺麗な日本車が走り回る中、いきなり色黒の労働者を詰め込んだトラックが前を横切るので、一瞬、ギョッとします。

ーー

わたくしは別にシンガポールのやり方を批判したいわけではありません。

単に、日本がシンガポールの真似をするのは「無理」であると言いたいだけです。しかも、真似をする必要もありません。

ーー

ところで、欧州諸国(特にドイツ)は「自由」な状況下で「外国移民」を受け入れ、結果的に治安維持が困難になりつつあります。

オランダでは、「オランダを我々の手に取り戻す」と訴える自由党が、来月の総選挙で第一党に躍り出そうな勢いです。

その後にはフランス大統領選挙も控えています。

ーー

というわけで、「移民政策では3つの政策を同時に実現する事はできない」と考えるに至ったのでございます。

1、移民受入
2、治安維持
3、国民の自由

この三つは「同時実現不可」なのです。

(1)治安を維持しようとすると、自由を失う(2)自由を保とうとすると、治安が悪化する(3) 自由を保ちつつ、治安を維持したいならば、外国移民を受け入れることはできないのでございます。

ーー

日本人は、日本語で教育を受け、職業選択の自由もあり、高校受験や大学受験で落ちたとしても、いくらでもやり直しはきくという意味の自由もあります。

この日本人が当たり前に享受している自由がシンガポールにはないということになります。

同時に、日本においては、治安は維持されています。清潔な街並みは、日本国民の誇りですが、別に「ゴミを捨てたら罰金」といったルールがあるわけではありません。

移民の受け入れは、「自由」か「治安」のいずれか、もしくは双方を諦めなければならないのです。

そして、多民族でも意思疎通を可能にするために、「英語が必須」に成ります。

このような環境の日本を希望する日本人はあまりいないはずです、少なくとも、わたくしは嫌です。

それにシンガポールのように人々が人種、職種、階級により管理されるような社会などお断りです。

ーー

「移民受入、治安維持、国民の自由、この三つは同時実現不可である」

この考えは、シンガポールに来て気が付いたのでございます。

何しろ、シンガポールは、移民人口比率は四割に達しています。

ーー

いやいや、シンガポール国民全員がもともとは移民なのです。

移民を「国民」とし、マレー連邦から追放される形で独立した国家こそがシンガポールです。

なぜ、マレー連邦がシンガポールを捨てたのかと言えば、まさしく民族が混合したシンガポールと、マレー人優遇政策を採ろうとするマレー連邦との軋轢が激化し、沈静化不可能になってしまったためです。

すなわち、シンガポールは移民国家故に、民族主義的なマレー連邦から捨てれられたのです。

ーー

というわけで、リークワンユーの下で独立した時点から、国民は支那人、マレー人、インド人とバラバラでした。

リークワンユーが政権を掌握すると、事実上の一党独裁(人民行動党)政治を実施します。

つまりバラバラの人種に「英語を強制し」「言論を統一(弾圧)し」「守るべき規則を設けて」「規則違反者に厳罰を課す」ことで彼らを国民としたのです。

すなわち、シンガポールは、建国当初から、移民を受け入れ、治安を維持するために、自由を失ったのであります。

ーー

シンガポールには、日本のような自由はないのです。

国民に日本のような自由を認めると、治安が維持出来なくなってしまう。

シンガポールに来ればみなさんも、次のような光景を目の当たりにするはずです。

「労働者が、トラックの荷台に詰め込まれ、運ばれている」
「小柄なメイドが、スーパーで大量の荷物を運んでいる」

多くの日本人は、日本でこんな光景を見たくはないはずです。

ーー

日本は、労働者が尊敬され、仕事がありその稼ぎで暮せる、買い物は自分でする、そんな国であるべきなのです。

所得が得られ、家があれば、出生率は回復し、人口も増え始めるはずです。

そのためにも、労働者を減らせば利益が出る寡占環境よりも、中小企業が競合するような状態でしかも高い生産性(高給が得られる)を保持する環境が望ましいでありましょう。

ーー

このような我が国と、シンガポールを比較し、「シンガポールのように、移民国家でありながら、安全な国があるじゃないか。日本も・・・」というような主張は、幼稚(ナイーブ)すぎる。

日本で移民の人権や自由を制限するなど不可能です。つまり自由な日本に、移民を受け入れれば、必ず治安が悪化する。

つまり「安全で自由な日本」を維持したいならば、移民受入に反対するしかないのです。

逆に、移民推進は、「日本国民から安全と自由を奪う」ことになります。

2017年3月26日 (日)

実に奇怪かつ嘆かわしい眺め

米国には、大きなキリスト教団体が存在し、自分たち専用のテレビ局を持ち、布教活動をしている。それは、バイブルに書かれている内容を文字通りに伝え広めようとするためのものだ。

例えば、バイブルの創世記に、およそ6000年前に人間も含めた宇宙が創られたと記されており、現在の物理学に反する記述がなされている。しかしその米キリスト教団体は、創世記の記述をこそ真理であると教えているのである。

この行為について、米人に問いただすと、「自分もその批判されている福音派に属しているのだが、バイブルが真理だと信じると公言することによって得られる連帯感は、米社会では捨てがたいものなのだ」と。

そして「バイブルが真理だと信じると公言したからと言って、日常生活には全く困らない。しかも米で社会生活をしていく上では、そのように公言する方が、生活しやすいのだ」と。

しかしながら、物理学や進化論を否定するような行為はおかしいではないかと言うことも出来る。その議論をしている人がいるのだが、コメント欄が素晴らしいので、小生にも分かるように少々編集してお目に掛ける。

ーーーーー

【徹底的改造計画7/7】懐疑なき教義がいかに人を無知に追いやるか?
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/1785e0ceaf4fed74d98f381a595c4693

ーーーー以下コメント、編集qazx

Unknown (裏暗)2011-07-07 14:29:43
PCでは、ハードはソフトが無ければ只の箱と言われ、またソフトはハードの性能に依存しています。宗教はPCに於けるソフトのようなものと考えればよいのでしょうか。宗教はハードである社会に規律を提供し、構成員である人々の集団生活を支えるものであるように思えます。しかしその宗教は、逆に社会によって規定されていると。

Unknown (ブログ主人による返信)2011-07-08 09:12:06
精神と肉体、あるいは宗教と人間社会の関係をソフトとハードに例えるのは、大抵の場合問題ないのですが、厳密に考えるとこれもなかなか難しいのです。

現実には精神と肉体はどこまでも相互に強く関連しており、不可分に一体な関係つまり「心身一如」であり、精神としての側面、あるいは肉体としての側面からの観察の区別でしかないのです。

つまり精神と肉体を互いに独立した別個のものとする考えそのものが誤っており、さらにそれをソフト・ハードの例えで説明するというのは二重の誤りを犯すことになります。

あと宗教と人間社会の関係についてですが、確かに宗教は人間社会においてこそ有益な道具にもなりうると言えるものです。

しかし例えばその宗教がいくら「普遍だ」「真理だ」と絶叫していようと、それを他の生物なり、物理法則が成り立つ宇宙なりに適用して、そこで明らかな不都合が出てくれば、その宗教が普遍でも真理でもないことが簡単に分かります。

そんな宇宙や物理学を知らなくても、ある宗教が提示するルールを別の文化圏に適用すればたちまち大きな不都合が出てくる様では、実際には、その宗教が提示するルールは、ある文化圏の人間にだけ通用するという、非常に矮小なルールでしか無いのが明らかになるはずです。

このような簡単な道理を弁(わきま)えず、これは全てに適用されるべき宇宙の大真理であると主張するのであれば、それはもうその人物の個人的な妄想としか言いようが無く、身の程をわきまえない愚かな行為だというべきなのです。

その愚かで幼い心の段階に多くの宗教者がとどまっているのは、実に奇怪かつ嘆かわしい眺めです。彼らは愚かで幼い心の段階にすでに数千年以上も停止したままなのですから。

2017年3月25日 (土)

欧米先進国においては共産党は存在することさえ奇妙とされる

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集

福富健一『共産主義の誤謬』(中欧公論新社)

欧米先進国においては共産党は存在することさえ奇妙とされる。

欧米先進国においては「日本と違い共産主義政党が消滅した」。

その大きな理由は、欧米の社会主義政党が、「『フランクフルト宣言』や『オスロ宣言』で明確に共産主義を拒否したからである」。

『フランクフルト宣言』(1951年)や「オスロ宣言」(1962年)を日本のメディアは熱心には伝えなかった。

そこには、共産主義について、「一党の独裁制を確立するだけの目的」しかなく、また「国際共産主義は軍国的官僚制と恐怖警察制度に基盤をおいている」と明言されている。

また国際社会主義の「オスロ宣言」は、「共産主義は単なる社会的、政治的、また経済的制度ではなく、自己の唱えるところが絶対的に正しいと主張し、かつ全世界に拡大せんと懸命になっている一種の教義である」と断言。

そして、「共産主義諸国はもっとも激烈な反植民地主義の言葉を使っているが、数千万の人々を奴隷としてきている」とソ連、共産支那を非難している。

ーー

「西欧の社会主義政党は、共産主義の『思想』そのものを『教義』であり人間の『自由を否定』し」ていると断定した。

そして西欧社会は、「人類社会と矛盾する思想を排除しようと」したのだった。

ところが、世界の自由主義先進国において、日本共産党のみが、2017年3月18日時点で、衆議院で21議席を占めている。

なぜ、こんなことになったのか。

ーー

それは、占領軍の旧体制の破壊という占領政策に起因する。

この旧体制の破壊政策には協力者がいた。ネット住人が在日・反日勢力と呼んでいる人たちである。

彼らは、占領政策に協力することによって敗戦利得を得、政財界、学界、言論界、メディア、法曹界を牛耳った。

日本共産党は、国際共産主義(コミンテルン)からの資金支援で日本支部として生まれ、ソ連の「日本で革命を起こせ」との指令を受け数々の武装闘争、火焔瓶事件を起こしていた。

戦後は、連合国の占領政策に協力することで、占領軍の保護を受けて暗躍し続けた。

日本社会が落ち着きだすと、反日運動を平和護憲運動に切り替え、左翼労働組合、教員組合、マスコミ、そして司法界に浸透した。

(平和護憲運動とは、彼らにとっては、敗戦利得維持運動なのである)
 
昨今彼らは、『安保法制』に反対し、国連加盟国の殆どがテロ対策として採用している『共謀罪』にも反対している。

日本の安全保障を考えれば『安保法制』は必用だし、テロ対策を国際的に協調して行うためには『共謀罪』も必用だ。

つまり彼らは、日本社会の破壊を目的とした、反日運動をしていることになる。

ーー

日本共産党は、「自己の唱えるところが絶対的に正しいと」し、「人類社会と矛盾する思想」を持つ。

この日本社会にとって、危険極まりない組織が、合法的に存在しているのである。

それゆえ、彼らの思想の根底にあるものを、ここで改めて見極めておく必要がある。

ーー

本書はオルテガの箴言から始まる。

自分を自制できないならば、人間は「自分のわがまま勝ってに身をまかし、自分を喪失して」「妖怪じみた、幻影的な、想像上の存在物になってしまうであろう」(ホセ・オルデガ・イ・ガセット著、井上正訳『体系としての歴史』、白水社)。

マルクスは人間の歴史は封建社会から資本主義社会、無産者革命を経て、最終的に共産主義社会に移行すると予言した。

日本共産党は、「天皇制を転覆するブルジョア革命を行い、その後、社会主義革命によって無産者(プロレタリアート)と農民の独裁を実現する」とした。

講座派の『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)には次のような文言が並んでいる。

「明治維新は、直ちにブルジョア革命ー有産者団の政権掌握ーを意味し得はしなかった。だが、それはその本質において旧封建的生産関係に対して、資本家的生産関係の支配的展開への、したがってまた、旧封建的支配者に対して、資本家および『資本家的』地主の支配権確立への端緒を形成したところの、画期的社会変革であった」

よほど頭の悪い人が書いたのだろう意味不明である。著者を調べると羽仁五郎だった。

しかし、この程度の作文でカクメイに走った一群の人たちがいたのである。

ーー

かつて日本でも、安保条約の条文も読まないで60年安保反対デモを行った若者たちがいた。

その姿は、最近韓国で行われたデモそっくりであることが分る。

韓国では、自由をデモで踏みにじり、法治をデモで無力化し、選挙した大統領をデモで引きずりおろしている。

朝鮮人は、民衆政治democracyをデモをすることだとでも考えているのだろう。

ーー

デモには扇動者がおり、資金提供者がいる。

ーー

60年安保反対デモにも扇動者や資金提供者がいたはずなのだ。

それを日本メディアは伝えなかった。

だから、国家が破壊されそうに成ったのだが、日本の場合政治家が踏みとどまった。

しかし自力で独立国を経営した経験の無い朝鮮人は、扇動者や資金提供者の思惑通りデモによって国家を破壊しかかっている。

ーー

さて、ドイツでは共産党は憲法違反として存在が認められていない。

たとえ合法的存在としてあっても、フランスや米国のように、誰も注目しないミニ政党だ。

台湾にも「共産党」がある。むろん、支持者は僅少、議席はない。

イタリア共産党は社会民主主義政党に変質したが、ソ連崩壊後に消滅した。

英国では政治から排除され、フランス共産党は衰亡の危機にある。

しかし日本では、日本社会の破壊を目論む日本共産党が、メディアに守られて、日本国民を平和団体だと騙して、のうのうと存在しえているのである。

2017年3月24日 (金)

大震災が日本国民の政治意識を変えた

現在の先進国で実現している経済は、多くの人が、物質的に豊かな生活が出来るようにと考えられ出来上がったものだ。それは大量生産大量消費経済で表現される。

例えば経済行為として商業を考えると、商業が持続的発展をするためには、需要の増大、あるいは消費の増大が継続する必要がある。それは消費の担い手である人口の増加を求めることを意味する。

その国の人口が、例えば結婚する人が減ることで、もう増えない状態になれば、商業はその規模を増やせなくなる。経済界では、従って、日本の人口が増えないのであれば、他国から持ってくればよい、移民を増やせ、という議論がなされてきた。

しかし、社会は経済のみで動いているのではない。確かに移民による消費が増えることで、一部の企業家は利益を増やすかもしれない。しかし移民してきた人々が、日本人が愛し大切に守ってきたものを侮辱し破壊したり、日本人をだまし馬鹿にし、日本人に危害を加えてくるような事態になれば、一般の日本人は、恐らく耐えられないだろう。

実際日本社会に、朝鮮人が入り込み、日本人に成りすまして、日本社会や個人に被害を及ぼす行為が続いている。

日本人はこれまでの歴史の中で、知識人や政治家が悪意を持って政治をするなどとは考えても見なかったのではなかろうか。しかし、現在の民主党政権は、いかがであろう。菅直人現首相は、外国人から政治献金を受けている。外国人を優遇する政策を実現するために頑張っているように見える。

実際、大震災で多くの日本人が困窮しているにも関わらず、その人たちへの対策よりも、子供手当てを優先した。子供手当てが、外国人にも支給されることを考えれば、民主党政権が何を意図しているのか分かろうというものである。

実際に、社会が外国人によって混乱させられた際に、被害を被るのは一般の日本人である。新聞記者やテレビ記者は、移民による被害を受けない安全な地位に居て、平気で1000万人移民を奨励している。

かつては無かったのだが、政治家の中には、日本国や日本国民が嫌いで、日本社会が混乱し日本人が不幸になることを楽しむ人々さえ存在するようになった。これらの人々の多くが、日本国には何の未練も無い、日本人に成りすましている外国人なのである。

さてそのような深刻な事態が実際に、英独仏では起こっている。そして、それらの国では移民に対する考え方が、変わろうとしている。日本では、メディアが、日本人のためには機能していないので、その深刻な事態を全く報道しようとしない。

この移民問題を書いている人がいるので、少々編集してお目に掛ける。

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【徹底的改造計画4/23】移民が世界にもたらした災厄 http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/26f15afeab0702ca5b7cdb45c29f60e2

国家と国民は互いの運命を一つにする一体の存在である。原発事故が起きたからと言って自分だけ生き延びようと海外に脱出するような考えの持ち主は、日本国には不要なのだ。また国の制度や国民を金儲けの手段だと考えているような人たちは、この日本ではなく、自分たちに都合のよい国に早く移り住めばよいのである。米国はそのような人たちのための国なのである。

古い国民国家の伝統を持つ、英独仏では、移民が大問題になっている。今こそ、古くからの国民国家である日本の「その土地に生きるというのは、その土地と共に死ぬ覚悟を持ってその土地を愛し抜くことである」という一所懸命の思想を改めて再認識しておくことは大切であろう。

国土を愛するのというのは風土を愛し文化を愛し、そこに生きる暮らしを愛し、ともにある人々を愛することである。かけがえのない父母や妻子同様に、それがいかに老いさらばえ病み衰え、たとえ何の価値もないほどにボロボロになっても、なお最後まで愛し抜くのである。

国民にとっての国土とは、そういうふうに替えの利かない唯一無二の存在なのである。

しかし移民には基本それがない。移民を受け入れることは、国土を憎み荒廃させることを意味する。事実、在日の朝鮮人や支那人たちは日本の国土をこぞって汚し利を漁る道具とばかりに食い散らかしている。そういう国土に真の愛情を持たない、一所懸命の志を共に出来ない異物とは、決して共存など出来るはずもないのである。

故にこれを排除することは、国土を守るための必要条件となる。そうすることは論理的に正しい。

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民主党は、一所懸命とは無関係の党である。実際そのHPに、堂々と、国家主権を移譲すると明記している。http://www.dpj.or.jp/news/?num=602

2004/06/23
民主党「憲法提言中間報告」のポイント
 
○解釈改憲による憲法の「空洞化」を阻止し、「法の支配」と立憲政治を確立するために。
 ◆「法の支配」を貫徹できる、より明確な憲法へ
 ◆憲法裁判所の設置を

(1)グローバリゼーションと情報化に伴う新しい変化や価値に応えるために。

 ◆国家主権の移譲や主権の共有へ
 ◆アジアとの共生

(3)「脱集権」「地域主権」の確立により、分権国家・日本を創り出すために。

 ◆中央政府と地方政府の対等原則
 ◆課税自主権の明記と補完性の原理

(4)「新しい人権」の確立と21世紀的「人権保障」のために。

 ◆独立した第三者機関としての「人権委員会」の設置
 ◆プライバシー保護請求権、政府に対する情報開示請求権などの明記

ーーーーー

つまり彼らは、日本国が日本国民の国家である、という普通の日本人が抱いている国家観を持っていない。国家主権を移譲するということは、日本国民のための国家ではなくすることを意味する。だから民主党にはその土地に根付いて生きる一所懸命の人々「日本国民」を守る意思も能力もないのである。

多くの真面目な日本人が、このようなとんでもない民主党に政権を与えてしまった。サヨクのメディアにだまされたのであるが、その結果、民主党によって、その土地と共に一所懸命に暮らしてきた被災者が現実に見殺しにされている。

しかし民主党は日本国民のための国家を解体するために、サヨクの期待どおりに振舞っているに過ぎないのだ。先の衆院選で、多くの善良な人々が、メディアの言うままに信任を与えてしまった民主党というのは、もともとそういう奴らだったのである。

ーーーーー以下コメント

Unknown (返信)2011-04-23 21:02:30

ほとんどの政治家はまだ気づいていないようですが、今回の震災は、それ以前にあった、国民と政治の関係を根本的に変化させてしまったのです。国家規模の大きな悲劇は国民というものを定義しなおし、団結させ、国民と国民でない者を明らかに峻別する方向に事態を推し進めます。

政治家は、国民でないものの側にあるか、国民の側にあるか、それによって判断をされることになります。国民の敵か味方かという訳です。どれほど巧みな弁舌で耳障りの良いことを主張しても、もはや敵である者の言葉は国民の心を震わせ動かすことはありません。敵はどこまでも敵であり、味方ではない。

だからその主張の是非にかかわりなく、問答無用に排除されていく。そして現在、菅は無論、小沢もはっきりと国民の敵だと見なされています。なのに菅の失態にほくそ笑み自分の命運がまだ尽きていないと思っているとすれば小沢も相当な間抜けです。いうなれば今回の災害は、国民の敵を炙り出すための方便であったに過ぎないのです。

2017年3月23日 (木)

ツァラトゥストラはかく語りき

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツの哲学者・古典文献学者である。今日の小論は、この男にまつわるものであり、理解するために、少々解説が必要になる。

つまりニーチェは、生存することの不快や苦悩を「終末の解決」に委ねてしまうキリスト教徒の考えを悪癖として否定し、世界は終末に向かって動いているのではなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観を提示した。

彼は、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想つまりキリスト教思想に死を告げた。

彼は、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされており、その恨みという負の感情こそが苦悩の原因であるとした。

さらにはニーチェは、恨みの感情に満たされたキリスト教精神、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。

そして既存の価値から離れ自由なる精神を獲得し、すべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けて、「超人」になることを目指した。

ここで超人『ツァラトゥストラ』は、ペルシア語でのザラスシュトラの呼称をドイツ語読みしたものである。日本語では英語名の転写ゾロアスター(Zoroaster)の名で知られるが、これは古典ギリシア語での呼称であるゾーロアストレース(Ζωροάστρης, Zōroastrēs)に由来する。

ザラスシュトラ(アヴェスター語:Zaraθuštra、ペルシア語: Zartošt ,زرتشت‎、紀元前13世紀?~紀元前7世紀?)は、ゾロアスター教の開祖であり、近年の研究では、前10世紀から前11世紀にかけて活躍したといわれるが、研究者によって異なる。

一神教を最初に提唱したともいわれるが、ゾロアスター経典の中には、古代アーリア人に共通する多くの神々が登場する。したがって、正確には「数多くの神々の中から、崇拝に値する神をアフラ・マズダーだけとした」人物である。

その教えは、ユダヤ教、キリスト教に影響を及ぼし、根拠はないが初期仏教にも影響を及ぼしていると一般に言われる。その影響力の大きさについては、絶対視するものから、かなり限定的とするもの、まったく皆無であったとするものまで、さまざまである。(以上wikipediaより)

さて日本の「ツァラトゥストラ」は、どのように語るのか、それをお目に掛ける。

ーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画12/6】ザラスシュトラはかく語りきhttp://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/3c007c3dedaf3db7382d15a507bd1fe6

ーーー

人間存在の上位に何かしら超越的存在ないしその意思を感覚すること、それは、そういう超越的存在ないし意志が実体を持つ・あるいは実在していると信じることとは、決してイコールではない。

純粋なる神の意志なるものが実在するとすれば、それを人間が理解し得るなら、蟻もまた神の意志を理解できるはずである。

ならば聖職者諸君、汝らは蟻に向かっても、汝らが神の意志だと強調して止まないバイブルやコーランを読み聞かせるべきである。

バイブルやコーランが神の意志だとする君たちの宗教においては、そうすることこそが正当であるはずだ。

ーーー

おそらく、人間が生きていく上で心のなかに何らかの超越的存在ないしその意思を感覚すること、それ自体は、私たちの遺伝子に組み込まれている感覚なのだと想う。実際、それにはいくつもの有用性がある。

ーーー

この世間の中で人が生きていく上でこそ、神を想い描く意味があるというものなのだ。超越的存在ないしその意思を感覚することが、自分や世間に秩序をもたらす原因となっているからだ。

また超越者の存在を想うことで、人間は謙虚に生きることができ愛されるべき存在となりうる、また死すべき身の彼方を見据え、絶望の苦しみや死の恐怖を和らげることができる。

ーーー

しかし有神論者は、「まず神ありき。つぎに神、人を創りにけり。さらに人、世間を作れり」と主張する。ここでの神は、人と世間の存在に無関係に存在している。神は人と世間が存在しなくても常に神として存在している。

ここでもし人も世間も存在しなければ、どうなのだろう。誰もいないのに、だから世間もないのに、神は、誰に対して何に対して、自身が神であると主張できるのだろう?人がいない、世間が存在しない、その時点で神は消え失せるに違いない。

ーーー

神の存在は、人と世間の存在に依拠する以外ないのである。それを言い換えると、神と人と世間とは、互いに縁起している、と言える。

縁起とは、原因や条件を表し、一方がなければ他方が成立しないという意味である。つまり、神と人と世間とは不可分一体である。

恐らく有信論者の神の実在は、人が規則を作り出すことが困難であった時代の物語なのだろう。古来人は、神が定めたということでその規則を守るべきものであるとし、その規則に基づいて社会を作ってきた。

しかし、もう人が規則を決めることに何のわだかまりもなくなっている。煩悩に満ちた人間、汚穢にまみれた世俗の我々が、法を堂々と作り、社会を作り上げている。

ーーー

ここに至ってもなお有神論者が、神の実在とその法を主張し、人間に規則を提示するとすれば、現在先進諸国の法体系は破壊されねばならず、現在先進諸国の世間は滅ぶ他無くなる。

事実、神の実在を主張する、特に一神教の教えは、イスラム教徒やユダヤ教徒に見られるようにそれが広まるほどに人と世間を混乱に落とし入れる。

おそらくゾロアスターを始め、古代ユダヤ人、イエス、モハメッドに至る一神教の教祖たちは、例外なくその知性と精神性があまりにも低く劣っており、ためにそのような自身が抱える問題を自覚することは殆ど無かったのだろう。

この結論は、神に実体なしと認め、心のなかに何らかの超越的存在ないしその意思を感覚し謙虚に一生を全うすることこそが、神を正しく信じたということなのである、と言えよう。

ーーーこれはまさに古来から日本人が生きてきた生き様そのものである。

2017年3月22日 (水)

歴史は学ぶためにある、というのが、日本人の歴史に対する一貫した立場です

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

もし歴史家が、自分の思惑のために史実を無視して、「信長が壇ノ浦で平家を滅ぼした」と書いたとします。

すると読者は、史実を根拠にそれはデタラメだと言うでありましょう。

記録を証拠に、「信長が天下布武を掲げて武力で全国を統一した」と、「平家が壇ノ浦で敗れた」とは時代が違っていると。

日本では、これら記録(証拠)を無視して大声を張り上げても、説得力は皆無なのです。

ーー

それでも大声で記録に無い自説を繰り返し主張するような人達には、日本人は、相手にしないといった制裁を加える。

ーー

史実「過去の出来事」についての評価(善し悪し)はその人の立場によって変わります。

たとえば「比叡山の焼打ち」については、焼打ちをした方と、された方で善し悪しの評価が変わる。

しかし歴史家は、比叡山を武装解除しなければ天下統一は不可能だった、と書いて読者を立場(善悪の評価)を越えた視点に導きます。

ーー

立場によって見方が替わるし、そもそも出来事を記録した文書には、書き手の立場が含まれている。

その立場を考慮したうえで、出来事に第3者が納得できる説明をする必要がある。

たとえば戦争では、勝った方も負けた方も、正義のために戦っている。

それゆえ善悪で説明することは不可能なのです。

歴史家の仕事とは、「なぜ戦争になったか」「その結果どうなったか」「別の方法はなかったのか」を読者に説明し、納得させることなのです。

ーー

日本最古の歴史書である古事記は「なぜそうなったのか」「その結果どうなったか」「別の方法はなかったか」が書かれています。

その善悪の視点は、おほみたから(民)の安全・安心・豊かさを奪うものが悪、その逆が善とされているのです。

そして重要なことは、それらの善と悪は表裏一体であって、善の中に悪があり、悪の中にも善があるという姿勢を全編にわたって保持しています。

そして善悪の当事者の織りなした出来事(史実)が記録されていて、そこから、私たちが考え学べる様にしている。

そしてこれこそが、日本人の歴史に対する考え方なのです。

ーー

国際法では、挑発(provoke)に対する攻撃(attack)は自衛権の発露とされ、正当な行為として認められている。

侵略(aggression)は、認められていないのですが、これは挑発されていないのに攻撃することです。

支那事変の場合、通州事件等々、日本はさんざん挑発を受けていた。

つまり支那事変は、侵略ではなく自衛権の発露になります。

ーー

日米戦争も、ABCD包囲網やハル・ノートによって日本はさんざん挑発を受けていた。

それ以前に、英米は支那国民党の側に援助を行い、飛行部隊まで派遣していたのです。

戦争には、戦争当事国と中立国しかありません。

そして中立国であれば、どちらの味方もしてはならないのです。

つまり、日米開戦の前に、すでに当時の米国は戦争当事国であったわけです。

従ってこのことを伏せて、米国民に「日本が真珠湾で騙し討をした」と述べるのは、政治宣伝であって歴史ではありません。

ーー

このように歴史は学ぶためにある、というのが、日本人の歴史に対する一貫した立場です。

ーー

日本は、7世紀と19世紀にいずれも外圧を受けて大きな変革を行いました。

そのときの日本の当事者らは、天皇陛下に政治の表舞台に立っていただくことで改革を断行したのです。

そして、7世紀になされた改革について書かれたものが古事記であり、712年に元明天皇に献上されています。

この改革というのは、645年の大化の改新やその転機だけを指すのでは有りません。

6世紀から8世紀の初めまで、およそ200年かけて、行きつ戻りつ徐々になされたものだったのです。

ーー

1853年の黒船来航以来の19世紀になされた明治維新を含む改革も、天皇陛下に政治の表舞台に立っていただくことでなされ、それはいまなお続いていると考えています。

それは、欧米列強による経済的軍事的支配に対して、日本が、日本的支配を掲げて挑んだ戦いなのです。

これは「植民地支配」という15世紀半ばからはじまる大航海時代以来の西欧の統治に対する、「日本的統治」との戦い、ということになります。

実際、朝鮮人を相手に「日本的統治」をしたのでありますが、相手が悪すぎて完全な失敗でありました。

が、世界戦Ⅱは、結果として西欧の「植民地支配」を一掃しています。

ーー

現在の日本は、世界戦Ⅱに敗けて、「国軍不保持、交戦権放棄」状態に置かれ、国内に在日・反日勢力を抱え、支那・朝鮮の軍事的脅威にさらされている。

「日本的統治」つまり「民が安心・安全・豊かに暮らせる」状況は、日本国内においてはまだ未完成だと言えるでありましょう。

明治維新が、そのための戦いの始まりであったとするならば、その戦いは、平成となったいまもまだ、その渦中にあるといえます。

明治元年から、今年は149年目です。「日本的統治」が確立していくためには、まだまだ戦っていかなければならないのだと思っています。

2017年3月21日 (火)

日本人が自分たちの「神話から続く文化」を自覚しそれを誇りに思うようになってきた

ーー以下「ねずブログ」より抜粋意編集

日本は、「きみ、とみ、たみ」の住むところであり、大昔から文化と言葉を同じくする人々の国家であったのです。

ですから多くの日本人は、世界中の国家も、日本と同じような国家であると、なんとなく思い込んでいます。

ところが、日本と同じような「文化と言葉を同じくする人々の住む国家」つまり国民国家が出来たのは、比較的最近の事なのです。

欧州でカトリック領主とプロテスタント領主が、1618年から、30年間も死闘を繰り広げ人口が半減する事態になる。

そこで1648年になって、ようやくお互いの領土を保全する条約、ウェストファリア条約を結んで終結する。

そこに出現したのが、文化と言葉を同じくする人々の国家であったのです。

ーー

つまり、国民国家が出来たのは、17世紀の事なのであります。

ーー

たとえば朝鮮半島には、1910年(明治43年)に大日本帝国に併合され、朝鮮人が日本国民とされるまでは、国民はいなかった。

国家という言葉は、支那の古書に記(しる)されています。

そこでは、国家とは、支配者(領主)の支配領域を意味していた。

幕末に日本人が「Nation State」を「国家」と翻訳し、新たに作った、この「国家」とは意味も使い方も異なるものだったのです。

ーー

李氏朝鮮の新興貴族たちは高麗の貴族の代わりに支配階級に成長しながら両班階級を形成します。

被支配階級には常人・賎人(白丁)がいた。

これらと両班の間に、一定の世襲的な職業を持つことで1つの階層に固定された中人という特殊な身分階級が生ずるようになった。

つまり朝鮮には王の他に両班・中人・常人・賎人(白丁)がいたことに成ります。

両班というのは文班と武班を総称した言葉で、彼らは農・工・商に従事せず、儒学だけを勉強して科挙を経て何の制限もなく高級官職にも昇進することができる特権を持った。

両班の中で李氏朝鮮の建国以来続出した各種の功臣たちと高級官僚たちは、彼らに様々の名目で支給された広大な土地を世襲・私有することで徐々に大地主になった。

ーー

つまり朝鮮での被支配階級、常人・賎人(白丁)は、当時の両班たちにしてみれば、自分たちと同じ「人」であるとされること自体、大迷惑な話です。

また、女性であれば、両班であっても、名を名乗ることが許されませんでした。

これは徹底していて、国王の妻であっても名前がありません。

そして名前がないということは、人間として扱われていなかった、極端にいえば、単に子を産むための道具であり性の道具であるということです。

これはいまの韓国でも同じで、女性は、適齢期の女性を意味し、適齢期を過ぎたら働き口もありません。

使用期限が過ぎたゴミ扱いです。哀れな話です。

ーー

要するに、日本が、国民国家=国民の統合体であるのにに対して、支那・朝鮮は領有国家=支配者の支配領域なのです。

ーー

朝鮮半島の場合、支那系、女真系、蒙古系など、様々な言語・文化を持つ人々が住んでいた。

従って日本が併合支配する1910年以前は、地域によって言葉も違っていた。

この言葉の違いというのは、支那での香港人と北京人が全く違う言語をしゃべるのに相当します。

朝鮮半島各地で話されていた言葉は、それぞれが文法も語彙も違っていた。

つまり日本でいう方言(日本語)とは違っていた。

日本では、沖縄人の話し言葉も、調べてみると、文法や語彙から、それが方言(日本語)であることが分る。

ーー

つまり朝鮮半島では、異なる民族を、武力で支配下に置いていたということに成ります。これが領有国家です。

朝鮮半島を500年間も支配した李氏は、支配の正統性を、支那の華夷秩序に入ることで得ようとした。

つまり李氏朝鮮は、支那の冊封体制の中に進んで組み込まれた。

支那皇帝から朝鮮王にされたということが支配の正統性の理由となったわけです。

ーー

一方日本は、有史(記録に残される)前から、土地も人も動植物も、その一切は神々のものであり、その神々と繋がる天皇が居られた。

天皇は、最高の権威であって、政治的権力者ではない。

これが日本の古来からの国の形、国体です。

これを「大君(おおきみ、天皇)の知らす国」といいます。

天皇は、世界の歴史に登場する領主とはまったく異なる概念であり存在なのです。

ーー

天皇は、アマテル神直系のご子孫であり、正統性を主張する必要など全く要りません。

日本は、支那の皇帝も日本の天皇と同じであるに違いないと考え、支那皇帝に対して、一貫して対等であろうとしてきています。

もちろん厳密には、古い時代に日本が冊封を受けた時代もあります。

それは、支那の王朝が冊封国にしか交易を認めなかったという事情によります。

日本の場合、朝鮮とは違い、冊封は単に交易をもとめてなされたに過ぎない。

清国の冊封を受け交易した琉球、蘭、英、仏、独、米、露などと目的は同じだったのです。

ーー

しかも戦後に誕生した南北朝鮮は、国民が作った国ではありません。

なにしろ朝鮮半島には、国民などいないので国民国家が作れなかった。

南北朝鮮は、大国日本に対する「対抗国家(Counter State)」としてそれぞれが米国とソ連よって人工的に作られたのです。

従って南北朝鮮は、反日であることが国家的正義となります。

つまり、両国は、この世に存在する限り、反日国です。

ーー

日本人を皆殺しにすることが、彼らにとっての正義となります。

ーー

実際、支那で支配者らは、前の王朝の王公貴族を皆殺しにし、民衆も皆殺しにしてきたのです。

そこに支配民族が進駐して増殖する。ですから、王朝交代のたびに、支那大陸では、人種が入れ替わっている。

つまり漢人と言われている支那人はたとえば漢の時代から連続してそこに住んでいた人たちではない。

漢字を使う人たちではありますが、一般民衆は、ほとんどが漢字の読み書きができなかった。

漢字を使う人たちが、漢字を共通文字として外交上の意思疎通を図っていた。

言葉が違う人々が、外交文書や政治文書に、漢字を使っていた。

漢字が使える人々、つまり孔子の四書五経を暗記している人だけが、意思疎通が可能だった。

これが漢人の正体であります。

支那には人種や民族という概念がそもそも存在しなかったのです。

ーー

支那人は、元の時代には、全員が元国人、明の時代なら明国人、清の時代であれば、清国人であった。

そして戦後には中華人民共和国が誕生しましたが、文化も言語も違う人たちが集まって、中国(支那)人だと主張しているにすぎないのです。

これもまた大国日本に対する対抗国家として連合国によって人工的に築かれた国です。

ですから南北朝鮮同様、現代支那もまた、反日が正義なのです。

ーー

連合国が戦後新たに作った国家という意味では、実は戦後日本も、戦前の日本への対抗国家です。

ーー

連合国占領軍GHQは日本の旧体制の破壊を主とする占領政策を行ない成功します。

占領軍に協力した人たちがいたからです。そして協力者は旧体制を支えていた人たちを追い出し、代わりにその地位を得て敗戦利得を手にした。

この協力者こそ、ネット住人から、在日・反日勢力と呼ばれている人たちなのであります。

その人たちが、戦後日本社会の政財界・学会・言論界・教育界・法曹界・メディアを牛耳った。

それゆえに、占領解除後も、いまだに日本は反日国家のままです。

ーー

日本メディアは、今も、占領憲法を護れと絶叫し、戦前の日本を否定し戦前の日本人であることを否定し続けています。

それは、彼らが戦後得た利権(敗戦利得)を守るためです。

在日・反日勢力が、戦後連合国によって作られた反日国家・支那・南北朝鮮に、友好的なのは、反日が共有できるためです。

ーー

しかし、ネット環境の出現によって、メディアの洗脳を解かれた日本人は、八百万の神が悪で、神社が悪魔を祀る宗教施設だという見方には違和感を感じるようになっている。

それは日本人が自分たちの「神話から続く文化」を自覚し、それを誇りに思うようになってきたからなのであります。

今や多くの日本人が、在日・反日勢力の主張を変だと感じるようになってきているのです。

2017年3月20日 (月)

苦しく辛い世界を生き抜く勇気を与え励ますために

ーーーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画2011/6/7】永遠の自我と輪廻転生の物語
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/dd37d7e5000515824bc3aa9d62b36396

ーーーーー

「永遠の自我を持ち輪廻転生を繰り返す」という世界でのお話である。例えば牛だった私が、人に食われたか何かで死に、その功徳(くどく)として、人の私に転生した。私は人になったが、ただ牛だったときの母(牛)はまだ牛の世界で生きている。

人である私には人の母がいるが、牛の母もいる。こういう転生が無限の時間の中で、社会に害をなし不幸なもの・貪るもの・理性を持たぬもの・争うもの・喜ぶもの・社会に貢献するもの、などの間で繰り広げられている。たとえ「社会に害をなし不幸なもの」であっても、我が母であったことがありうるわけだ。

そこでは「社会に害をなし不幸なもの」から「社会に貢献するもの」が生まれることもある。命ある存在は、ややこしい関係で幾重にも無限に連なっている。「全ての命あるもの」がそのような奇怪で断ち切りがたい因縁(関係)で深く結ばれている。

現在は毒虫や極悪人と呼ばれる存在でさえも、どこかで、かつては私の最も愛惜(いと)しい人であった。今はそのことを微塵も覚えていなくても、事実そうであったに違いないと考えられるような世界でのお話である。

ーーーーー

そのような世界では、許すべからざる悪をなすもの、他人を傷つける者も、その被害者もかつて私の愛した者たちであった可能性が出てくる。

ーーーーー

永遠の自我を持ち輪廻を繰り返す者の運命として、遅かれ早かれ人は敵にも味方にも転生し得る。その中で人々は結び付けられあっている。そこには無限の時間、織り綴られてきた縁(関係)が存在している。

輪廻転生の世界の中では、かつて母と子であった者が、互いに形と立場を変えながら殺し合い、あるいはかつて殺しあったものが母と子になり互いを慈しみ合う。それゆえ人は、今この時の関係故に憎しみに引きずられてはならず、また今この時の関係故に愛におぼれてもならないことになる。

ーーーーー

それでは、我々は、もはや憎しみも愛も、それを生じさせている自他の関係も、そして自身の実在さえも、一切が虚妄であることを認めて、輪廻転生の世界より静かに永遠の沈黙に向かうべきなのか。

これは、どちらが正しい、どちらが価値があるという問題ではない。絶対なものは何も無いからだ。自由に考えれば良い。

ーーーーー

ただもし、永遠の自我を信じ、自分というこの意識とともに永久の輪廻を生きて行くのなら、人は孤独ではない。「全ての命あるもの」と切り離しがたく結ばれ、「全ての命あるもの」と運命をともにすることになる。

そこでは情は味方になることもあれば敵にもなる。というより情に支配され翻弄されることを覚悟するしか無い。その世界では神さえもそうなのである。なかなかしんどいことであるが、まあ仕方ない。

ーーー

ーーー

そして徹底さんは、輪廻転生に関連する、因果応報について、

「生きとし生けるものに、この苦しく辛い世界を生き抜く勇気を与え励ますためにこそ、この様な教えは説かれる意味がある」と、以下の様に書いておられる。

ーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画2/20】前世の業の報いとかhttp://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/5e209ea2d42a8e4731362ffc2a772dcd

ーーー

すなわち、前世が現世に、あるいは現世が来世にどのように影響するかという文脈で語られる超時空的な因果律とはこういうものだ。

施しをなしたものは、多く受け取ることになる。寛容であったものは、慕われ地位を得る。ねたみそねみをしなかったものは、美しくうまれる。賢く強くあらんと望み克己努力したものは、優れた才覚を得る。利他に尽くしたものは守られ、慈悲あったものは慈悲が与えられる。

ーーー

とかく人間というものは自分の幸福は自分の才覚努力のおかげと慢心増長し、不遇にある人に対しては努力が足りないのだと、蔑み(さげすみ)足蹴(あしげ)にする性根を持ちやすい。

それは人間の心を蝕んでやまない病=無知・無自覚・無反省・無慈悲の病であるといえる。

その病に罹る(かかる)と、通常、酷い困窮や惨めな境遇に陥る。その無知・無自覚とそれによってもたらされる境遇の繰り返しこそが輪廻である。

だから人間は、自分の幸福に奢らず(おごらず)、他人の不幸を嘲らず(あざけらず)、生きる方が良いのである。

つまり因果応報(輪廻転生)は、かたくなな人々の心を懐柔し良導するための方便として使われる。

ーーー

前世に功徳善行を施したものは現世において恵まれた生活をすることができる。これが因果応報という考えだ。もちろん、恵まれた生活というのは、受け取る側の主観にもよる。

しかしもし輪廻転生し、過去との間に因果応報という形で現在が存在すれば、現在は現在によって絶えず変更を迫られ、単一に収束できない。つまり現世は定まらず、実在して居ないことになってしまう。

つまり、現在の不幸が過去の罪業の故であるというためには、現世が夢幻(ゆめまぼろし)で、この我が身・我が人生もことごとく虚妄であるという前提が必ず必要になるのである。

ーーー

ゆえに、前世や因果応報を信じることは、それはそのまま眼の前にある現実の否定、今ある自分の存在の全否定に直結することになる。

だから、私達が自身の生存を事実として肯定し、現実を実在するものとして認め、その前提の上で生きることを望むのであれば、前世や因果応報(輪廻転生)を決して信じてはならないのである。

ーーー

このことが理解できているのなら、なお輪廻転生や前世と現世来世の関係その物語に言及することも許されよう。

ーーー

例えば、この現実が虚構の舞台で、自分の人生がそこで演じられる役柄であるとする。たぶんこの舞台の前には、違う舞台が演じられていた。

以前の舞台では、自分は貧しく醜く、才覚にも乏しい病者の役で、存在価値のない端役であった。さてところでである。その舞台の演出者は、どういう意図を抱き持っているのであろうか?

演出者はひとえにこの世界=舞台をより良いものにしていこうとしている、世界を「究極の完成」に近づけようとしているに違いないのである。

「究極の完成」がどういうものであるのか、役者には分からないところが問題なのだが、いずれにせよ、そのような恣意的な関与が許されるのは、世界が虚構の舞台であり、人の人生が割り振られた役に過ぎないからである。

ーーー

それでは、世界が虚構の舞台であるとして、いま与えられている境遇や人生について、さて自身どのように考えどう捉え、どういう生きる姿勢を持つことが、自分自身の人格形成にとっても、この世界の行く末にとっても建設的で有意義なことなのだろうか?

たぶん多くの人にとって、今の自分や自分の人生は不本意で、ときに生きるのを続けるのさえしんどく辛く、あまたの屈辱や失望、無力感を経験していることと想う。

それでも生きている限り何かできることはある。たとえわずかでもできることはある。

いまここで自分の両手のなかにあるものを、それがいかにわずかであっても、可能な限り工夫し上手に活かし用い、何か自分や他人に意味あることをなすために、有効に用いようと願う事はできる。

実際に何が出来るのか、それが何の役に立つのか、それは本質的にどうでもいい。そういう算段に心悩ます必要は一切ない。

むしろそれは夢の中で夢の中と知らぬまま成果を追い求め必死にあえぐようなもので、どこまでも無用な雑念や妄念にすぎないからだ。

大切なのは、自分という存在をもって何か意義あることをしたい、誰かのためにわずかでも役だちたい、そう迷いなく純粋に心から願うこと。

それが自分の心の中にあるかないか、その一点だけなのである。この誠実で混じりけのない純粋な思いや願いを、本願とも発意(発願 発心)ともいう。

ーーー

もしこの世界が夢幻であり、人々や無数の衆生の心、その願いで出来上がっているものなのだとすれば、そこであなたが抱く本願や発意は、同じ願いを抱いた過去現在未来に生きた他のすべての衆生の心や願いとも、当たり前のように共鳴を起こすことになる。

そのことによって、あなたはいつかかならず世界の運命、人々の運命そのものをその願う方向に導く大いなる光ともなろう。

と、まあこのような結論を導くために、本来は輪廻転生や因果応報の教えは説かれていたのである。

すなわち生きとし生けるものに、この苦しく辛い世界で、私利私欲だけではない生き方を、生き抜く勇気を与え励ますためにこそ、この様な教えが説かれていることになる。

ーーー

2017年3月19日 (日)

輪廻転生の世界

例のこ難しい話をする人が、「輪廻転生(りんねてんせい)と衆生(しゅじょう)の縁(えん)」について書いているので、小生にも分かるように、少々編集してお目に掛ける。

ーーーーー以下抜粋編集qazx

【徹底的改造計画6/7】永遠の自我と輪廻転生の物語
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/dd37d7e5000515824bc3aa9d62b36396

ーーーーー

「永遠の自我を持ち輪廻転生を繰り返す」という世界でのお話である。例えば牛だった私が、人に食われたか何かで死に、その功徳(くどく)として、人の私に転生した。私は人になったが、ただ牛だったときの母(牛)はまだ牛の世界で生きている。

人である私には人の母がいるが、牛の母もいる。こういう転生が無限の時間の中で、社会に害をなし不幸なもの・貪るもの・理性を持たぬもの・争うもの・喜ぶもの・社会に貢献するもの、などの間で繰り広げられている。たとえ「社会に害をなし不幸なもの」であっても、我が母であったことがありうるわけだ。

そこでは「社会に害をなし不幸なもの」から「社会に貢献するもの」が生まれることもある。命ある存在は、ややこしい関係で幾重にも無限に連なっている。「全ての命あるもの」がそのような奇怪で断ち切りがたい因縁(関係)で深く結ばれている。

現在は毒虫や極悪人と呼ばれる存在でさえも、どこかで、かつては私の最も愛惜(いと)しい人であった。今はそのことを微塵も覚えていなくても、事実そうであったに違いないと考えられるような世界でのお話である。

ーーーーー

そのような世界では、許すべからざる悪をなすもの、他人を傷つける者も、その被害者もかつて私の愛した者たちであった可能性が出てくる。

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永遠の自我を持ち輪廻を繰り返す者の運命として、遅かれ早かれ人は敵にも味方にも転生し得る。その中で人々は結び付けられあっている。そこには無限の時間、織り綴られてきた縁(関係)が存在している。

輪廻転生の世界の中では、かつて母と子であった者が、互いに形と立場を変えながら殺し合い、あるいはかつて殺しあったものが母と子になり互いを慈しみ合う。それゆえ人は、今この時の関係故に憎しみに引きずられてはならず、また今この時の関係故に愛におぼれてもならないことになる。

ーーーーー

それでは、我々は、もはや憎しみも愛も、それを生じさせている自他の関係も、そして自身の実在さえも、一切が虚妄であることを認めて、輪廻転生の世界より静かに永遠の沈黙に向かうべきなのか。

これは、どちらが正しい、どちらが価値があるという問題ではない。絶対なものは何も無いからだ。自由に考えれば良い。

ーーーーー

ただもし、永遠の自我を信じ、自分というこの意識とともに永久の輪廻を生きて行くのなら、人は孤独ではない。「全ての命あるもの」と切り離しがたく結ばれ、「全ての命あるもの」と運命をともにすることになる。

そこでは情は味方になることもあれば敵にもなる。というより情に支配され翻弄されることを覚悟するしか無い。その世界では神さえもそうなのである。なかなかしんどいことであるが、まあ仕方ない。

2017年3月18日 (土)

汝試みに妄聴せよ

「全面的徹底改造計画その壱」という長い題名を使っている人のブログを、小生はよく勝手に抜粋編集してお目に掛けている。

そのブログの副題が「たぶんれんとして たぶれるも またたぶれかな?」なのである。とにかく難解なのだ。難解な内容を何の迷いも感じられない文体で一気に書かれている。

その人のことを、我が家では、これも勝手に徹底さんと呼んでいるのだが、小生は、天才に違いないと思っている。

小生は、まあ普通なので、小生にわかるように、徹底さんの難解な中身を編集して小生の読者に紹介してきた。

その徹底さんが、自分のブログの中身にどのような意味と意図があるのかを、「本当はするつもりもなかったことだが」と、解説しておられる。

それがまた難解なので、今日も勝手に抜粋編集してお目に掛ける。

ーーー

【徹底的改造計画2012/1/18】たまにはブログ的自己表白をしてみる http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/748c3b45531b7b708b2fd09058425ff6

まずブログの題「全面的徹底改造計画その壱」だが、この世は言葉でできているので、そこで何かを改造するというのは、畢竟(ひっきょう、つまり)言葉以外ではできない。

しかしながら、言葉というのは、観念にすぎず、あくまでも虚妄なのである。そこでブログの題は「言葉でできた観念世界そのものの虚構性を人々に気づかせる」という意味になる。

そのためには、硬直した思考や観念を懐疑させる必要も出てくる。それであえて狂人として振舞おうとして、狂人の言葉のままを真似ることさえある。

だから副題で「たぶんれんとして たぶれるも またたぶれかな?」とつけている。たぶれというのは狂人のことである。

そんなことを考えて実行するのもまた「狂人か?」と、そういうニュアンス(意味)がある。

ーーー

言葉というものはそれを発した人間の属性と一致一貫したものであることを強く求められている。しかしそれには、言葉を発する人物、私が、不動であるという前提が必要である。

しかし現実には、人間は変化する。一刹那も完全に同じ状態ではとどまれない。不動の私は現実にはどこにも存在せず、それを求めることは不可能である。

つまりこの認識こそが、無私、あるいは無我という理解に結びつく。無私すなわち わたしなるものがみつからない。無我すなわち 我を我在らしめる実体がない。

無論、こういう理解は、俗世のあり方と大きな矛盾をもたらす。俗世の私なるものは、自身の属性と、自身の発する言葉の一致をもって、実在の根拠としている。

そういう虚構の集積物として、俗世が存在し、さらにそういう虚構が共有されることでのみ、観念的な世界が構築されている。

ーーー

しかし自身が超俗のあり方を示そうとすれば、この虚構を一度解体してしまう必要がある。そこでとりあえず、無私無我を示そうとするのだが、

無私無我である以上、一貫性は自分においては示し得ないし、そのようなものはありえるはずがない。だから一貫性はこちら側ではなく、語りかけられる相手にのみあるということになる。

つまり私の用いる言葉はただ機に応じ相手に応じ発せられる方便に過ぎないので、首尾一貫することもなく、一見すると矛盾も多い。

しかし語りかけられる相手においては、彼自身に私、我という属性があるので、その同じ相手に語りかける限りにおいて、発せられる言葉にも一貫性があり矛盾していないように見える。

ーーー

ここで相手には、個別具体的相手と、不特定抽象的相手がある。

個別具体的相手に対しては、いつでも相手によって「私」が確認されるので首尾一貫して「私」であることが可能であろう。

不特定抽象的相手に対しては、相手はそれぞれの理解の範囲で「私」を理解するので、そこで首尾一貫して「私」でいるということはありえない。

想うに、万人に対して常に同じ「私」であろうとするのは、執着(しゅうちゃく、とらわれ)の病でしかないのである。

荘子「斉物論(せいぶつろん)」の登場人物・長悟子は「我試みに汝(なんじ)がために妄言せん。汝試みに妄聴せよ」と言う。結局は「わかるなら妄聴妄読しやがれ」ということだ。

わからないならそれがお前の程度だから、わざわざそうする義務もないのについてくんな!そういうわけで、関心の赴くまま、機に応じて、好き勝手なことを述べさせてもらっている。

«ソ連は朝鮮人盗賊を沿海州で飼いならし、終戦後、無政府状態の半島に送り込んだ

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