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2017年5月24日 (水)

近代社会を破壊する文明

ーー以下「中韓を知りすぎた男コメント欄」より抜粋編集qazx

どの国にも歴史が有るが、それが貧困や差別、汚職や汚辱に塗(まみ)れていて、直視できないほど酷(ひど)くても、たいていの国は正面から受けて止めている。

ところが、支那・朝鮮人は、其れをやってこなかった。

彼らは、暴力によって、政権を手に入れた人々(それも異民族)が、前政権が築いた文明であっても、それを我が物だと偽って、自分たちの「歴史」に書き加えてきたのである。

そういった行為が何回も続くと、何時(いつ)しか彼らにとっての「歴史」は、政権にとって都合よく書き換え、書き加えるべきものとなった。

そうすることが、支那・朝鮮人の血肉となってしまったようだ。

ーー

日本人が思い描く歴史は、これを「れきし」と別に記さねばならないくらい、支那・朝鮮人にとっての「歴史」とは違ったものとなっている。

日本人にとっての「れきし」は、史実であるのだが、支那・朝鮮人の「歴史」は、作文にすぎないのである。

つまり、小説さながら無価値なものか、その記載内容の大方は疑わしいものなのである。

彼らが誇る数千年にわたる文明が、作文に過ぎないと考えれば、その上に成り立っている現在の文明も、底が浅いものだと言うことに成る。

この事が、彼らが文明を再生はできるが改良・更新する事が出来ない、つまり近代化できないと言うことの理由である。

ーー

例えば朝鮮には、古いものが何もない。

朝鮮人は、それは日帝によって破壊されたと言うのだが、史実ではむしろ日帝が朝鮮の数少ない文化財の保存に努めている。

更には、朝鮮戦争によって朝鮮人自らが文化財を破壊してしまったために、つい百年ほど前の李朝に朝鮮人がどのような生活をしていたかさえも、わからなくなっている。

最近、炎上した南大門の修復をしていたのだが、もう塗装は落ち、材木にはひびが入っている。

このことからも朝鮮人が、祖先から学ぶという価値観を持たないことが分かる。

ーー

朝鮮人は、自分の過去をたぐり寄せ明らかにする資料や文献すら保存できていない。

これでは、支配者に都合の良い物語が作文されても、それが作文だとは立証できなくなってしまう。

2014/03/12(水) 15:37:29|  URL|  ナポレオン・ソロ #90LdKUd6

ーー

朝鮮人は、世界戦Ⅱ後、米国によって国を与えられた。この際も、朝鮮人自身の国を作ろうという渇望は、微塵も起こっていない。

1948年建国直後の1950年に朝鮮戦争が起こった。

戦争は、当事国の正義と正義の戦いでもあるのだが、朝鮮戦争の大義とは、大国同士の正義のぶつかり合いでしかなかった。

そして、犯罪者イ・スンマン李承晩は、この機に乗じて、日本併合後に生じた民主化の芽を朝鮮人虐殺と云う手段を用いて悉(ことごと)く、摘み取り、李朝同様の恐怖政治を人民に強制したのだった。

ーー

朝鮮戦争が休戦となり、このような汚職と腐敗にまみれたイ・スンマン政権をパク・チョンヒ朴正煕が、クーデターで打倒する。

パク・チョンヒは、日本を騙して、基本条約を結び日本から莫大な資金を得て、国家の体裁を整えるのだが、在日朝鮮人に暗殺されてしまう。

すると、史実に学ぶことができない朝鮮人社会は、また再び法治国家とは相いれない中世社会である李朝社会へと回帰してしまった。

ーー

朝鮮人たちは、自らの不幸を他人の所為(せい)にばかりして、「れきし」を直視する勇気を持たない情けない人たちなのである。

そうである以上、朝鮮人社会は、永遠に近代化できないで、中世のまま地に埋もれ、一篇の語り草になるのを待つのみでしょう。

2014/03/14(金) 10:09:35|  URL|  ナポレオン・ソロ #90LdKUd6

2017年5月23日 (火)

そのときこそトランプは乾坤一擲の勝負にでる可能性が高まります

ーー以下「宮崎正弘ブログ」より抜粋編集

オバマ政権下のCIAは情報機関としての機能を失っていた。

有効な情報を殆ど取ることができず、また機密情報を持つ亡命希望者(王立軍)らを保護することに失敗した。

かつては、CIA、FBIの内部にロシアのスパイが紛れ込んでいたことがあった。

オルドリッチ・アーメス(CIA)とロバート・ハンセンン(FBI)事件は米国のインテリジェンス機能に大きなマイナスとなった。

2010年から2012年にかけて、CIAは、北京からの情報が途絶え、工作員ネットワークが消滅したことに気付いた。

CIA協力者(支那人)18~20名が支那当局に逮捕され、殺害もしくは刑務所に送られていたのだった。

米国の情報漏洩と類似の機密が支那のハッカーと推定できるルートからウィキリークスに漏洩していた。

ーー

CIAの高層部の内部に北京のスパイが潜んでいたのだ。

「その男(The man)」は永年にわたって最高機密の判別法、暗号の解読法、工作員の連絡の仕方など情報収集・連絡の技術を、北京に漏らしていた。

その男は、組織が疑い始めたと気付くと、CIAを退職し、アジアに移住して企業経営を始めた。

ーー

この新聞(news)は『ニューヨークタイムズ』(電子版、5月21日)の一面で報じられた。

ーー

BBCなどが後追いで報道し始めており、在米北京語新聞も大きく採り上げている。

「中国逮捕殺害20名美国間諜」(博訊新聞網、5月21日)

CIA、FBIはともに、この情報に関して一切のコメントを出していない。

北京もこのニュースをまったく伝えていない。

ーー抜粋ここまで

(読者の声)トランプ大統領の所謂「ロシアゲート事件」

特別検察官を任命し、民主党陣営や米リベラルメディアが、大統領弾劾へ持ち込もうとしているようにみえます。

しかしヒラリーのような明らかな犯罪の痕跡はない。

日本の民進党や共産党が安倍政権に根拠なき悪評を流しているのと同じにしか感じられない。

ーー

宮崎さんは、トランプはアンドリュー・ジャクソン(第七代大統領)を尊敬しているとされています。

が、彼の政治をみていると、どうやらリンカーン政治の再来を狙っているのではないでしょうか?

ーー

NAFTAの見直し、TPP離脱、パリ協定の見直しなど、アメリカンファーストの目的は保護貿易主義による、グローバリズムとの対決であります。

これを草の根のアメリカ人が強く支持しているように思われるのです。

つまり中西部から南部諸州のキリスト教徒らは、熱狂的にトランプを支持している。

トランプ弾劾を叫んでいるのは、極端に言えば、選挙結果同様に東海岸の進歩派とカリフォルニアだけ。

プーチンによれば、アメリカは、『分裂』という状況ですが、弾劾にまで発展するでしょうか?

(NN生、京都)

ーー(宮崎正弘のコメント)

左翼が偽(フェイク)情報を流し続けています。

議会もその影響を受けるようになるかもしれません。

ウォーターゲート事件の報道記者ボブ・ウッドワースは、メディアの左翼的偏向報道について、「自ら酔っぱらっているゾ」と警告しています。

ーー

小生は弾劾には至らないと予測しています。

第一にNSA、CIAの機密情報なら、大統領の権限で活用できますから、問題がない

第二に「同盟国」の機密情報であり、その当該国の同意を得ていないとなると、それが立証されれば、弾劾対象ですが、マクマスター補佐官らは「大統領は情報源を知らなかった」と言い切り、ロシアは「機密情報などなかった。なんなら翻訳報告書を米議会にだしてもいい」と言っている。

となれば、「機密」を提供したイスラエルが問題ですが、イスラエルが「提供した」などと肯定する筈がありません。

したがって「明確な証拠」の提示が無い限り、推定有罪ではあっても、立件は無理でしょう。

米国の専門家の多くも「捜査は三ヶ月から半年かかるが、明確な証拠もなく、弾劾は成立しない」と見ています。

ですから弾劾の可能性は稀薄です。

ーー

が、議会において弾劾の検討があるかも知れません。

ただし、そのときこそトランプは乾坤一擲の勝負にでる可能性が高まります。

すなわち、北朝鮮のミサイル基地、核施設への攻撃です。

2017年5月22日 (月)

覚者は、人の欲望が叶うことは決してないと教えている

ーーーーー徹底的改造計画

隣の芝生は本当に青いのか?問題
2010-08-04 15:16:37 | Weblog・他http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/6d8d767392bfc7d18a9daabc48c0e0a2#comment-list

ーーーーー編集qazx

(質問、20代女性)私には、すぐに他人と自分を比較してしまう癖があり、他人の中に自分にないものを発見して、それが、羨ましくて、悩んでしまいます。つらいので、何か生き方のヒントが見つかればと、哲学書をはじめたくさんの本を読んでいます。

私は、この不況の中、仕事があり会社勤めをし、優しい家族や友達、恋人に囲まれ暮らしています。幸せな日々を過ごしているはずだ、と考え、部屋のあちこちに、「ありがとう」と書いたシールを張りました。いつも目に留まるようにして、感謝の気持ちを忘れないようにしています。

それでも時々、他人と自分を比較して、自分が惨めになり、どうしようもなく悲しくなり、落ち込み、嘆いてしまうのです。涙があふれてきます。隣の芝生は青いのは承知していますが、どうしたら他人と自分を比較しても、豊かな気持ちで生きていけるのでしょうか。

ーーーーー 

(回答)何かを得るたびに一旦は満足し、しかし次の瞬間、自分が持っていないものを他人が持ち合わせていることに気づくやいなや新しい不満が心に影をさす。その影は時間とともに濃くなり、いつしか心そのものを闇に染める。その闇のなかで人は生涯囚われ、苦悩し続けている。

愛する者を手にしても失う悲しみもある。一つのものを得るためには別の何かを犠牲にし捨てるしかない場合もある。社会で成功するほどに他人の妬みは増え敵も多くなる。何より、そうして得てきたもの、積み重ねたきたもの一切が、我が存在もろともに、自らの死によって消失する。

覚者は、人の欲望が叶うことは決してないと教えている。求めることが衆生の本性になっているが、しかしその望みは満たされはしない。満たされぬ苦悩は、自ら求めることをやめる以外には、永遠に続く。しかし求めることを捨て去るのはとても難しい。

人は生ある限り何かを求めずには居ることが出来ない。たとえ俗世一般の欲得がなくとも、喉が渇けば水を欲し、溺れれば空気を欲し、寒さにあれば日の温かさを求める。それゆえ人が求めることをやめるとは、生きながら死ぬことになりかねない。

まあ、ありていにまとめれば、死への覚悟なくば欲を捨てることはならず、欲を捨てることなくば目覚めることはなく、目覚めることなくば苦悩から逃れ得ない。目覚める人はめったに無い。なので通常人は、皆ひとしく苦悩しながら生きている。

ーーーーー

ここで、「求めるが得られないがゆえの苦悩」を退治するための心の工夫を、夢想疎石の「夢中問答」からいくつかお目に掛ける。

ーーーーー

得ることに汲々とする人たちはこう考えなさい。

人の生業は様々である。ある人は農作をし、別の人は商売をする。さらには巧みな手先を生かしたり、あるいは芸事に精進したり、役所や会社に勤める。しかし、多大な工夫を重ねながらも望むほどの福徳を手に入れる人はわずかであろう。

それさえも火事にあい失い水害にあって流され、時に泥棒に奪われ税金として取られる。つまり平穏では済まない。一生涯そのような不運にめぐり合わない人はほんのわずかである。

しかし今生(こんじょう、この世)の福徳がすべて前世になした己の善行の報いであると考えれば、どうであろう。災いの到来は、前世に積み重ねた善業はすでに今生での幸福として受け尽くして、もはや残っていないためだと納得もできようと言うものである。

今生の幸運に増長し、世間に奉仕せず、弱いものを手助けせず、他人に無慈悲をおこない、悪業だけを積み重ねているのかもしれない。幸福を無思慮に受け尽くし、悪業だけを残せば、それは来るべき来世、贖うべき罪科が約束されているに違いない。

まことに今生での幸福を欲し得たがゆえに、来世では罪の贖いをするしなかないという大損を得る。小利を得て大損を蒙る。これひとえに求めることを自制せざるがゆえの報いである。だから得ることに汲々とする人たちはこう考えなさい。

自分が今生で貧乏なのは、金持ちになろうとする努力に欠け、得るための戦略に自らの落ち度があったが故ではなく、前世での強欲無慈悲の行いをなしたがゆえの業報であると。貧乏になるべき業があるがえゆにえ、努力が及ばず戦略をも誤つのである。

貧しくなるべき業報だからこそ、求めれば求めるほどに貧しくなる。この貧しくあるべしという業報から逃れる術(すべ)は、求めるという作為を捨てることだ。欲を制し、心穏やかにあるならば、必要なものは自然に満たされ、必要でないものには縁を持つこともない。

ーーーーー

他人と比べ自分にはあれがないこれがないと、心身を苦労させている人はこう考えなさい。

この北の世界(熱いインドからすると)には、気候が穏やかで、自然に穀物が育ち、そこに住む人は飢えることがない。ケガや病苦もなく、寿命はおよそ千年もある。しかしそれより優れた世界がいくつもある。

金輪聖王はその下にある人間世界の全てを支配し、人が望む七つの宝の一切を得ている。その寿命は8万年もある。

人界の上にある天界には、さらに6つの階層があり、その最下層は四天王の世界である。

神(天人)であるからおおよそ福徳に足りぬことなどあろうはずもなく、その寿命は我々の50年を一日としてなお500歳もある。

その上にある忉利天(とうりてん、33天)は帝釈天の住む世界で須弥山の頂上にある。神の王である帝釈天は四天王も日月も我が眷属として従わせており、寿命は実に私たちの百年を一日として1000歳もある。

天界の最上位である第六天の主、他化自在天。その寿命は人間の1千6百年を一日として1万6千歳もある。

到底、人間の福徳と彼らの福徳を比較することそのものが無意味である。

しかし彼らも所詮は人間同様、欲に満たされた心で出来上がった欲界の住人であるため、その福徳もまた前世の報いとして与えられたものである。前世での福徳尽きるとき、天人五衰の悲しみに覆われ、最後は欲に覆われた世界の最下層に生まれ変わる。

欲界の上には、心が生じさせたモノによって出来上がっている色界、心によって形が無限に織り上げられる無色界がある。

色界には4つの世界があるが、そこにいる天人たちは皆この上なく美しい姿形をし身体は眩しいほどの光明を放っている。色界の最下層にある帝釈天は仏によって三界の王と位置づけられている。その寿命の単位は劫(こう、宇宙の誕生から消滅までの期間)で、実に一劫半。

色界の最上位である第四層は一切の存在が消滅する時節である壊劫のときの3つの災いさえも寄せ付けない。

無色界にも4つの階層がある。無色界の住人は形ある存在ではないため、自身は衣食財宝何も必要とせず、しかし心の力で何でも生み出せる。その最下層での寿命はおおよそ2万劫。最上層の非想天では8万劫である。

これらの果報はまことに人の想像をはるかに絶するが、いつか必ず尽きる。のちには悪趣と呼ばれる低い世界に生まれ変わる。すなわち三界に安きことなし、なおし火宅のごとし。想像を絶するような果報に恵まれていようと、火の燃え盛る家の中にいるのと同じなのだ。

私たちの福徳は、それが望み通りに叶おうとも、なお天人にもはるかに及ばない。ならばそのような僅かな取るに足りぬ果報を求めて心身を費やし、他人や世間に悪業を積むような生き方にどれだけの意味があろうか。

その手間暇で、他者と世間に福徳を施し、しかし自身は見返りを求めず、自らの心を整え解脱を得ようと精進する方が、余程意味ある生き方だと思われる。

ーーーーー

とまあ、そのように考えることを教えるのは、自身の欲得を抑え、他人を妬み自らを卑しむ心を制し、もって安心させるためにこそする方便である。しかし輪廻転生が存在する故、ああせよこうせよ、と他人に命じるのは誤っている。方便を実在のように他人に説くことは方便の意義そのものを大きく取り違えることに他ならないからだ。

神仏の存在にせよ、過去生今生来世という三世や上記の三界の別にせよ、すべては我が心を調御するための工夫に過ぎないのである。それで、世の中でこの相談者と同じ種類の苦悩を抱えている人も多かろうと思い、こういう詮なき方便をあえて解説してみた次第である。役に立てばなによりである。

ーーーーー

ーーーーー
Unknown (返信)
2010-08-05 09:26:08

欲強き者には欲を捨てよと教え、欲なき者にはときに応じて求めなさいと教えることがあります。これはまったく矛盾した真逆の教えのように思えますが、相手の立場を基軸に据えれば矛盾はないのです。

時に応じ、人に応じ、状況に応じ、言葉として説かれる教えは全て異なりますが、それは言葉がこちらの真意を悟らせ行いに向かわせるための方便に過ぎないからです。

しかしてその伝えられるべき真意とは、自分がかたくなに信じその実在を疑うことも無き自我をもって世界を推し量り事をなすことの根本的誤りに気づかせるためなのです。

たとえば生きているうちに、私自身(人)も私以外のもの(法)も、二つながら実体が無いという、「人法の二無我」の理にめぐり合えば、つまりもし、欲を持つ私自身と、その対象である世界が共に実在しないことを知れば、その自我ゆえに何かしらを常に外に向かって求めているこの欲望もまたどこにあるのだろう、という根源的懐疑が生じてくるはずです。

ところが現実には、この境地にまで至れる者は稀です。それゆえ無知なるがゆえに盲目的な欲望に無意識に突き動かされているほとんどの衆生に対し、欲を捨てなさいといきなり大上段に極端を言い切ることにも意味があるのです。

すでに自覚して自分の中の欲望と向き合えている人には、状況に応じ、もう少し欲を抑えなさい、あるいは世俗への欲求ではなく解脱への欲求を膨らませなさいと、教え導くための時宜方便をさらに使い分けます。

まあ欲求も欲求の対象も欲求を抱く我も、それらは根源的な意味では、ただ心が仮に思い描いた虚構に過ぎないのです。よってその虚構に関して説かれる言葉はすべて方便ということになります。なので不必要に字面に惑うのは愚かなことです。

とりあえず言えるのは、目の前にある言葉の羅列が自身の心を整える工夫として使えるなら使いなさい、さもなくば捨てなさい。そういうことです。

ーーーーー

ーーーーー8月8日追加

Unknown (返信)
2010-08-05 20:17:09

覚者の教えに限らず全ての教えというものは自身の心を整えるための方便であり手段に過ぎません。それで、自分の心を整えることができるなら、それは有効であったというわけです。それだけのことです。それでいいのです。

仏教の知識を詰め込んで難しいなどと言っているようでは、つまり、それを実際の自身の人生に活かすことができなければ、そしてそれを自身の心を整える手段に出来ないのであれば、却って知識を学ぶことそのものが成道の障りになります!おわかりになりますか?

2017年5月21日 (日)

日本での「かんながら」という文化は、神話を学ぶことにあると言える

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集

古事記の原文に書かれた漢字を一字一字紐解いていくと、実は非常に重要な事が書かれていることに気付かされます。

その序文には、当時伝えられていた神話の誤りを正し、これを国家の教典としようという「目的をもって」書いた、と。

そして、まる30年かけて研究された成果が、古事記なのです。

つまり、古事記に書かれた物語は、国家の教典としてふさわしい内容を持っているのです。

ーー1 葦原の中つ国の平定のあらまし

天照神(あまてるかみ)が、「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちいほあき)の水穂国(みずほのくに)は、我が御子(みこ)の、マサカツアカツ・カチハヤヒ天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の知らす国ぞ」と仰せになった。

その天忍穂耳命が、天の浮橋まで行かれた。

(マサカツアカツ(正勝吾勝)は「正しく勝った、私が勝った」の意、カチハヤヒ(勝速日)は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意)

ところが天忍穂耳命は、「下界はひどく騒々しい」と仰せになって、高天原に帰ってしまわれる。

そこで、(八百万の)神々は相談し、天菩日神(あめのほひのかみ)を下界に遣わします。

けれど3年経っても「復奏(かえりごと)」しない。

ーー

やむなく神々は、天若日子(あめのわかひこ)を下界に遣わします。

ところが天若日子は、大国主神の娘の下照比売(したてるひめ)と結婚し、8年経っても「復奏(かえりごと)」しない。

そこで神々は、探索に、キジを天若日子のもとに遣わす。

キジが天若日子の家に着いて鳴くと、その声を天佐具売(あめのさぐめ)に聞かれてしまう。

天佐具売(あめのさぐめ)は、キジは声がよろしくない「射殺すべし」と天若日子に奏上する。

こうして天若日子は、そのキジを矢で射ってしまいます。

ーー

ところがキジを貫いた矢は、高天原に上がってくる。

その矢を手にした高木神は「もし天若日子が、悪しき神を射たのなら天若日子にあたるな。もしそうでないのなら、天若日子にあたれ」と言って、矢を地上に戻します。

すると矢は、天若日子にあたる。

そして天若日子の葬儀が行われます。

ーー2 詔(の)らす、請(こ)はす、復奏(かへりごと)す

まず天忍穂耳命ですが、「下界は騒々しいと告げた」というところは、

ここに天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天浮橋(あめのうきはし)にたたして詔(の)らさく、

「豊葦原(とよあしはら)の千秋長(ち)五百(いほ)秋(あき)の水穂国(みづほのくに)は、伊多久佐夜芸弖(いたくさやぎて)ありなり」

更(さら)に還(かへ)り上(のぼ)り、天照大神(あまてらすおほみかみ)に請(こ)はす。

ここにある「伊多久佐夜芸弖(いたくさやぎて)あり」というのは、「いたく騒々しい」といった意味です。

ーー

ここに、「詔(の)らす」と「請(こ)はす」と二つの語が用いられています。

天忍穂耳命は、まず「下界は騒々しい」と「詔(の)」らしたのです。

「詔」という字は、「言+刀+口」でできています。

そこからこの字は、「神秘の力を持つ刀」を捧げて、祝いの言葉を口で唱えて神招きするさま。

つまりれ、神を招いて行われる天子の言葉「みことのり」を意味するのです。

ーー

天忍穂耳命は、天照神の子です。

ということは、天忍穂耳命が「(下界は)いたく騒々しい」と告げた相手は、天忍穂耳命が招いた神々、つまり、天忍穂耳命が天の橋に降り立つ際に同行した部下の神々に対するものであるとわかります。

そしてこのあと天忍穂耳命は、高天原に「還り上っ」て、天照神に、「請(こ)はされた」。

「請」という字は、「言+青」でできていますが、青は澄み切った心を意味し、澄み切った心で願うという意です。

つまり、天照神には、「請」が使われていることは、天忍穂耳命は、天照神に何かを願い事をしたことになります。

古事記は続けて、「高御産巣日神(たかむすひのかみ)は、天照神の勅命をもって天の安河(やすのかわ)の河原に、八百万神を集めて思金神(おもひかねのかみ)に思慮をつくさせた」と書いています。

ーー

天照神は、命令者であっても、具体的な政策を実行するのは権力者です。

その結果責任は、意思決定をした高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が負います。

高御産巣日神が、天照神のために、具体的な対策を講じた。

それが、神々を集めて思金神(おもひかねのかみ)に思慮を尽くさせることだったのです。

ーー

この葦原の中つ国は、我が御子の知らす国ぞと言依せ賜える国です。

しかしこの国には、道速振(ちはやふ)る荒振(あらふ)る国つ神たちが多数います。

(ですから天忍穂耳命が地上界に行く前に、先に誰かを遣わすべきです)

そこでどの神を遣わしたら良いでしょうか。

神々は、「天菩比神(あめほひのかみ)を遣わすのが良いでしょう」と決めます。

ーー

ところが天菩比神は、大国主神に媚びへつらって、三年経っても「復奏(かへりごと)」をしてこなかった。

ーー3 天菩比神(あめのほひのかみ)と復奏(かへりごと)

神話は、もともと神代字で書かれていました。

この神代字は豪族毎に伝えられており300種類以上あったとされています。

しかし豪族毎に違っていたのでは文字での意思疎通ができない。

そこで7世紀中盤から8世紀初頭にかけて、漢字を用いて大和言葉を書き表すという努力が行われます。

(天智天皇、天武天皇、持統天皇から、平城京遷都を決められた元正天皇に至る)

大和言葉の表記に漢字を用いることで、文字を統一しようとされたのです。

それで、大和言葉「かへりごと」に、「復奏(フクソウ)」という漢語が「後から」当てられたのです。

ーー

古事記では、漢字に無い言葉は、漢字の音だけを使って表記しています。

しかも、その場合注釈をつけているのです。

「かへりごと」と言う言葉は、今では、まず使われることがありません。

言葉を失うということは、その言葉によって表現されていた文化を失うということです。

ーー

ところが古事記は、言葉が失われてしまったときでも、後世の人が意味を取り違えることがないように、漢字の持つ、本来の意味を一語一語考えて、記述がなされているのです。

ーー

さて、「復奏」の「復」という字は「彳+复」で、空になった酒の壺を持って帰る象形でできています。

そこから「もと来た道を帰る」ことを意味します。

「奏」は差し上げるという意味です。

この二つの漢字を組み合わせると、「来た道を帰って(顔を見せて)報告申し上げる」という意味になります。

ーー

高木神は、思金神に思慮を尽くさせ、八百万の神々と議(はか)ったうえで、天菩日神の派遣を決めています。

ということは、天菩日神は、顔は見せていないものの、天照神、高木神、思金神のいずれかに報告を上げていたと考えられます。

ーー

天菩日神(あめのほひのかみ)の地上への派遣を決めたのは、高木神であり、思金神であり、八百万の神々です。

派遣命令は、天照神の勅命をもって行われたはずです。

ということは、派遣を決めた神々は、「天照大御神に対して、派遣を決めたことについての責任を負っている」。

逆にいえば、もし天菩日神の派遣が失敗に終われば、その責任は、高木神であり、思金神であり、八百万の神々が負わなければならないのです。

責任を負担しているのは、派遣された天菩日神だけではない。

派遣の意思決定に参加した、すべての神々が、応分にその責任を負担しているのです。

ーー

つまり、天菩日神は、責任を負担している神々の前で、状況報告をしなければならない。

それも、できれば、神々に顔を見せて(つまり高天原まで還り上って)、報告を行わなければなりません。

それが、「復奏(かへりごと)」の持つ意味です。

ーー

「意思決定に参加した神々全員の前で顔を見せて報告し、自分の現地における行動を認めてもらう」ということが大切なのです。

ーー

派遣先である中つ国において、天菩日神が置かれた立場は複雑です。

国つ神の信頼を得なければならず、国つ神の警戒心を解く必要があった。

そのような情況のなか、高天原に還り上ると、信頼を失い、警戒心を持たれてしまう。

だからまる3年間、高天原に顔を見せなかった、見せたくても、できなかった。

それは、天菩日神が、誠実に任務を遂行しようとしていたからなのでしょう。

ーー

それでも、派遣を決めた神々は、「かえりごと」を求めていたのです。

神々からすれば、「かえりごと」がなければ、「見えない」。

見えななければ、「不安」となり、「あいつは大国主神に媚びているのではないか」という疑いに転じます。

これは、世の中によくあることです。

ーー

「かえりごと」をしなかった、天菩日神は、結果として行動を疑われてしまった。

ーー4 結婚した天若日子(あめのわかひこ)

高天原の神々は、天菩日神がなかなか復奏(かえりごと)してことないことに、業を煮やします。

そして、再び会議を開き、「天若日子(あめのわかひこ)」を地上に遣わすことを意思決定します。

そしてこのとき天若日子に高天原の神々は、今度は天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を持たせて派遣します。

ーーしかし

「天若日子は中つ国に降りると、大国主神の娘の下照比売(したてるひめ)を妻にし、国を自分のものにしようとして、八年経っても復奏(かえりごと)をして来なかった」

ーー

ここに大国主神の娘として、「下照比売(したてるひめ)」が登場します。

天若日子は、イザナキ、イザナミの間に生まれた金山毘古(かなやまひこ)の子の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子です。

つまり、イザナキ、イザナミの孫にあたります。

そして天若日子は、神々の血を引く(日子)高天原の若君という名です。

ーー

古事記が記録している大国主神の娘は、下照比売だけです。

「下照」という言葉は、「上(天)照」に対応した言葉です。

つまり「下照」には、「上(天)照」に高天原を照らす意がある様に、中つ国を照らすといった語感があります。

大国主神の下照比売への大きな期待が感じられます。

ーー

天若日子の下照比売との結婚は、中つ国を「騒々しい国から静かな国に戻す」という大きな使命を達成する上で、とても大切な行為でした。

これは両家によって祝福された結婚であった事でしょう。

といことは、高天原と中つ国は、ここでも「ちゃんと日常的交流があった」ということになります。

ところが高天原は、「八年経ってもカエリゴトをして来ない。これは中つ国を天若日子が自分のものにしようとしているのではないか」と疑いだした。

そして高御産巣日神は、神々に、「天若日子は久しくカエリゴトがない。次はどの神を遣わして、天若日子がひさしく留まっている理由を問わせたらよいであろうか」と問います。

ーー5 キジと「さぐめ」

諸々の神々と思金神は、「それでは鳴女(なきめ)という名の雉(キジ)を遣わしましょう」と答えます。

そして雉(キジ)に、「お前が行って天若日子に問うことは、汝を葦原中つ国に遣わせた理由は、その国の荒振(あらぶ)る神等を、言趣(ことむ)け和(やは)すためである。どうして八年経つのにカエリゴトしないのか、である」と命じます。

キジの鳴女は、天(あめ)から降って、天若日子の家の門にある湯津楓(ゆつかつら)の木に止まります。

そして、命ぜられた通りに伝えます。

ーー

これを聞いたのが、「天佐具売(あめのさぐめ)」であったわけです。

「天佐具売」の「佐具売」は、「此三字以音」と書かれています。

「さぐめ」は、「探る女」を意味します。

大国主神が天若日子に付けた間者のことです。

ーー

大国主神は、天若日子を信頼しているから結婚を許可したのです。

それでも間者を天若日子の身近に付け、逐次天若日子の行動を見張らせています。

これは上に立つ者として、当然の行動です。

こうした間者という者は、周囲に対して常に疑いを持つ者でなければなりません。

頭から人を信用するようなタイプでは、「さぐめ」は務まらないのです。

ーー

「さぐめ」の職務は、下照比売を警護することにありますし、そのためには何事にも警戒することが仕事です。

「さぐめ」にとって必要なことは、大切な下照比売に危害が及ばないように、比売(ひめ)の安全を確保することであって、キジの話す内容ではありません。

ですから「さぐめ」は、キジの話す内容ではなく、「わけのわからないことを言っているおかしなキジが来た」と警戒します。

そしてキジを「怪しい者」と感じて、天若日子に「射殺すべき」と進言しています。

ーー

比売(ひめ)の護衛が言うことなので、受け入れ、天若日子は弓矢で、キジを射殺します。

このときに使ったのは、「天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)」と「天之波波矢(あめのははや)」でした。

「麻迦古(まかこ)」の「かこ」は水夫のことなので船上で用いる強い弓のことを意味しています。

「波波(はは)矢」の「はは」とは大蛇のことで、これは大蛇を射抜く強い矢という意味です。

要するに、威力が絶大なのです。

ーー

このため放たれた矢は、キジを射殺しただけでなく、その体を貫いて、さらに遠くへ飛んでいき、「射上がって天の安河の河原に坐(いま)す、天照神、高木神(たかぎのかみ)の御所に逮(いた)り」ます。

(高木神というのは高御産巣日神の別名)

ーー

矢が高天原まで届いたのは、高天原と中つ国が、時空間に共存しているということを意味しているのか、

それとも、キジの鳴女が、単独ではなく、誰か別な者と一緒に中つ国に行っており、その者がカエリゴトする際に矢を持ち帰ったのか、それは文面だけではわかりません。

いずれにせよ、そのキジの鳴女の血の付いた矢は、高木神(高御産巣日神のこと)のもとに届けられた。

それで、高木神は、

「もし天若日子が勅命を誤っていないのなら矢は当たるな。もし天若日子に邪心があるならこの矢は麻賀礼(まがれ)」

と言って、中つ国に矢を差し戻します。麻賀礼(まがれ)とは「禍(まが)れ」」という意味です。

ーー

すると戻された矢は、寝ている天若日子の胸元を貫き、天若日子は亡くなってしまいます。

ーー

「復奏(カエリゴト)」を怠ると重大な結果を招くのです。

関係者が一同に介する前で、報告がなければ、結果として命さえも失いかねないという怖(こわ)さが、こうして描かれます。

さらにこの段では信頼すべき部下の報告だからといって、真に受けることの危険性も教えてくれています。

さらに、生命を奪う行為は重大な結果をもたらすことを覚悟しておく必要があることも教えているのです。

ーー6 天若日子の葬儀

天若日子(あめのわかひこ)が亡くなったことで、妻の下照比売(したてるひめ)は嘆き悲しみます。

その声は、天にいる天若日子の父にまで届き、父は妻とともに中つ国に天降ります。

そして「禍(まが)れ死んだ」ということで八日八夜の喪が営われたのです。

(通常は、人体を構成している48の言霊が神上がる、48日間を喪とする)

ーー

葬儀が営まれているとき、斎場に阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)という神様がやってきます。

阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)という名は、「阿遅」遅れてやってきた、「志貴」貴い志の、「日子根」天照神の子孫(子)を根とするという意味です。

つまり、名前には「高天原系の血筋」と書いてあるのです。

これはいったいどういうことでしょうか。

ーー

阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)が葬儀にやってくると、

天若日子の両親は、「我が子は死んでなかった」と言って喜び、手足に取りついて泣いた。

阿遅志貴高日子根神が、亡くなった天若日子とそっくりだというのです。

すると阿遅志貴高日子根神は、取り付いて泣く親たちに、おおいに忿(おこ)り、

「私は親友だから弔(とむら)い来たのだ。なせ私を穢(けが)れた死者と一緒にするのか」

と言って、刀を抜くと喪屋を切り伏せ、足で蹴散らしてしまう。

ーー7 下照比売の歌

下照比売は、阿遅志貴高日子根神を見て、次の歌を贈ります。

 天(あめ)なるや
 乙棚機(おとたなばた)の
 う流(なが)せる
 玉の御統(みすまる)御統(みすまる)の
 あな玉(たま)速(はや)み
 谷二(たにふた)は
 足(たら)す阿治志貴
 高日子根ぞや

「天で魂と肉体を結び付けている玉の緒を織っていると聞いています。天若日子はあまりにも早く神上がられてしまいました。私の二つ目の運命の人は貴方です」

すると、阿遅志貴高日子根は驚いて、

 天下がる鄙詰めの意は
 ただ瀬訪(せと)い
 しかは片縁(かたふち)
 片淵(かたふち)に網張り渡し
 めろよしに由(よし)より来(こ)ねい
 然(しか)は片淵

「急いで弔問に来ただけです。一方的な求婚は、網を片岸だけに固定して魚を採るようなもの、正式に仲人を立てて求婚してください」

ーー

歌から、ここまでの記述を逆に読んでいくと、次のことがわかります。

天若日子は胸を矢で貫かれました。
けれど実は死んではいなかった。

天若日子は、「復奏(かえりごと)」がなかったために、高天原から疑われてしまいます。

そして自分が疑われているとことを、自分の方に向かってきた矢で知るのです。

言い換えるとその矢は、高天原が天若日子に死を賜ったということです。

ーー

けれど天若日子は、下照比売を妻にしています。

そして、様々な誤解が積み重なって、死を賜ることになってしまった。

ひとつ救いがあるのは、天照神は、何もかもお見通しであるということです。

そうであれば、天若日子が、中つ国が静かなる国になるように、彼なりに誠実に履行してきたことも、天照神はご存じのはず。

それゆえ「当分の間、死んだこと」にして身を隠すことも、天若日子の選択肢の一つでした。

(このような例は、日本史には度々登場します)

ーー

ところが、そうと知らない妻の下照比売は、夫が死んだと嘆き悲しみます。

高天原にいる両親も、息子が死んだと思って、わざわざ遠く高天原からやってきて、悲しみに沈んでいます。

そこへ天若日子は、阿遅志貴高日子根と名を変えて友人として、両親や妻の前に現れたのです。

いくら、「私は若日子の親友だ!」と言い張ったところで、親には若日子だとわかる。

若日子は、親に迷惑がかからないようにと、心を鬼にして祭壇を壊し、大暴れして去っていく。

そこで下照比売も阿遅志貴高日子根が若日子であることに気づき自分から求婚する。

阿遅志貴高日子根も「仲人を立てるように」と言う。

ーー

阿遅志貴高日子根神の名は、歌では阿「治」志貴高日子根神と、名前の文字が「遅」から「治」に変わっています。

はじめの「阿遅」は、葬儀に遅れてやってきたことです。
あとの「阿治」は、間違いを整えようとしたということです。
なぜなら「治」には「間違いを整える」という意味があるからです。

そして「治」が間違いが整えられたという意味なら、後年、天若日子は嫌疑が晴れて、再び下照毘売と幸せに暮らしたということになります。

なぜなら下照比売の名前も、ここで「高比売」と変わっているからです。
夫が「志貴」なら、妻は「高」です。

二神揃えば、それは「高くて貴い志」を遂げたという意味になるからです。

ーー8 まとめ

現代では死語になってしまっている「復奏(かえりごと)」ですが、実社会においては、今も顔を見せての報告が大切なのです。

そのことは、誰もが社会人としての経験則から学ぶことです。

宗教は一種の文化であり、西欧における宗教には、教義があり、その教義を学ぶことが宗教活動の一つにされています。

ところが日本の宗教には教義というものが判然としない。

日本での「かんながら」という文化は、神話を学ぶことにあると言えるでしょう。

自分自身の成長とともに学んできた神話について、「なるほど、そこに書かれているのは、そういう意味だったのか」と、気付くようになっている。

日本文化は、この「自分で気付く」ことを、大切にしているのです。

これは、人間の持つ主体性を大切にし、人の持つ可能性を信じている文化なのではないかと思いました。

2017年5月20日 (土)

お金はなぜ人を幸福にしないのだろうか

幸せを手に入れるために、富みを得ようとする。これは余りにも当たり前の行為と見なされているために、「どうやら「富」は「幸せ」を増やすよりも、減らす可能性がある」、との研究者の報告は、驚きをもって迎えられた。

すると、人が求め続け、しかもその求める行為が、自分の本心から外れて居ても止めようとしない、のは、そのほうが楽だからだと、小難しい議論をしている人がいる。

しかも、「神を観る」などという、聞きなれない言葉を使っており、意外なので、小生に分かるように編集してお目に掛ける。

ーーーーー徹底的改造計画

青い鳥はどこにいる?2010-08-19 08:19:29
http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/dab238bc6769e526d1892f9570718ba5

ーーーーー

WIRED NEWS 原文(English)
http://wiredvision.jp/news/201008/2010081823.html

お金が人を幸福にしない理由:心理学実験から
2010年8月18日
Jonah Lehrer

ーーーーー編集qazx

特に先進国では、お金は、必ずしもわれわれを幸せにはしない。貧困を脱してしまうと、「富」は「幸せ」にそれほど大きな影響を与えない。現在、世界一豊かな国・米国でも、「幸せ」だと感じない人たちが増えている。

ーーーーー

「お金はなぜ人を幸福にしないのだろうか」この問題に対しては、ベルギー・リエージュ大学の心理学研究班が行った実験が面白い。

リエージュ大学の用務員から上級管理担当者まで成人職員351人を集め、無作為に2群に分け、その1群には、山のように積んだユーロ紙幣の画像を見せた。

その後で、一連の質問を行なった。その質問は、「楽しむ能力」を測るために作られたもので、重要な課題をこなす(充足感)、遠出してロマンティックな週末を過ごす(喜び)、ハイキング中に見事な滝を発見する(畏敬の念)という、いずれかの経験を想像するよう求められる。    

それぞれの経験に対して、反応として8通りの選択肢が用意された。そのうち4つは、肯定的な感情を表わす、その瞬間の気分を楽しむ、その出来事を楽しみに待つ/追想する、その経験について他人に話すというもので、経験を楽しむ能力を表す。

被験者は、そのような状況下で自分が通常とるはずの行動を最もよく表わしている反応を、1つまたはそれ以上選ぶように求められ、経験を楽しむ選択肢を1つ選ぶごとに1点獲得する。

オンラインで結果を集計したところ、紙幣を見せられた被験者たちは、経験を楽しむ能力の得点が有意に低かった。この結果は、人間はただお金の画像を見るだけでも、人生の小さな喜びを楽しむことへの興味が薄れる可能性を示唆している。

また被験者は全員、収入を把握されていたので、現実に多くのお金を稼いでいる被験者ほど、楽しむ能力の得点が有意に低いことが分かった。

ーーーーー

以上の研究について、研究班は寒々しい調子で次のようにまとめている。

われわれの研究は、富が幸福を必ずしも増やさないことを実証するものとなった。しかも富を連想させるものを見るだけでも、人間の楽しむ能力を害することが分かった。言い換えれば、人間の楽しむ能力を低下させるために、実際にエジプトのピラミッドを訪れたり、カナダの有名な温泉に1週間滞在したりする必要はないということだ。

最高に楽しいことをたやすく経験できると考えるだけで、日々の小さな喜びは、あって当然のことと捉えられてしまい、楽しみがそれだけ減少する可能性がある。

ーーーーー

ーーーーー編集qazx

人は、他人より豊かになろうとし、より多くを得たいと願う。それはとても自然な行動であり、通常、人はそうすることが自分の幸福に直結していると信じて疑わない。

私たちの表面意識は幸福になるためにお金持ちになることを望む。しかし、潜在意識は幸福になるためにお金持ちにならないことを望んでいる。表層意識は、仮面であり、潜在意識の方が私たちの本心なのだろう。

ーーーーー

場合によっては人は一生を仮面のまま過ごす。善人の役、悪人の役、守銭奴の役、何にせよ、仮面以外の自分の在り方があろうとは露程も思わない。だから善人は悪人を断罪することに容赦なく、悪人は善人にどこまでも無慈悲で、守銭奴は得ることに手段を選ばず時に他人の物まで容赦なく奪う。

でも善人の中での悪への同情、悪人の中での善への憧憬、守銭奴における貪りへの慄(おのの)きが、生じることがある。しかしその声にうっかり耳を傾けようものなら、自分はこれからどういう自分であり続けられるのだろうかという恐怖に襲われることになる。

仮面を捨ててしまえば、今ある自分は消えてしまう。仮面を脱ぎ捨てた後、なお自分に素顔はあるのか。ひょっとしたら仮面の下は何も無いのではないのか。それは誰にもわからない。

恐らく仮面を脱げば、周囲の人間の多くはあなたを見知らぬ人同様に扱う可能性が高い。つまり周囲の人間との関係で失うものが多いだろう。

ーーーーー

仮面を脱いだあなたは、これまでの自分から開放される。表層と潜在の自我が統一され、場合によっては、自我さえ放棄することになり、自我は境界を失い、他者の心の壁を乗り越え、まるで自分の心と他人の心が同じものであるかのように、見通せるようになる。

これこそが俗に、神を観ると言われている事なのである。観る者と観られるものを隔てる境界を超えることは、神の見ているものを観るということなのである。

ーーーーー

ここで一部の人は、観る者と観られるものを隔てる境界をも確かに無意味なものであると了承して、その瞬間、望むこと一切を捨て去り、覚者への道、永遠の寂静へと歩みだす。

ーーーーー

しかし知恵ない者は、観る者と観られるものを隔てる境界を超えると、観られるものを創造できることを知り、観る者から観られるものを自ら生み出す側に進もうとする。それは、あたかも虚空のなかに無限の合わせ鏡をおいて自分の姿に似た虚妄を無限に創りだすようなものだ。そして、生み出したもの全てが、自身の似姿であることをも忘れ、外部存在だと勘違いし、そこに魅せられてしまう。

創造への執着、無限の妄想の連鎖、結局それこそが「神を観た」ときに生じる欲望なのだ。下手をすると、「神を観た」ばかりに、無限の喜怒哀楽の罠に永遠に自身を閉じ込められ、抜け出せないままそこで永遠に遊戯することになる。

「神を観た」人はそうでない人とは違う次元で、しかし相似な愚かさを有している。異なる存在の階層ではあるが、同質な迷いを持つということになる。たしかにそれは合わせ鏡の中の似姿そのものだ。だから鏡ごと割ってしまえばよい。あるいは目を閉じ似姿を観ないようにすればいい。

ーーーーー

何かを得たいと強く願う心は、本心を知ることから人を遠ざける。真に心が求めてやまないものを見えなくする。それはまるで京都から東京を目指して西に向かって歩くに等しい。あるいは温かいものを必要としている時に、冷たいものを口に入れるようなものだ。

だから本心を知り、真に求めるべきものを知るためにこそ、一旦は求めることをすべて静止させる必要がある。それはたぶん本質的に不幸なことなのであろう。

本来の自身とは真逆な自分を演じ、演じている自分こそを自分だと疑うことなく、生涯をそのように終える。夢から決して目覚める事無き夢遊病者。舞台を降りてもなお役を演じ続ける道化。その方が、人にとっては、楽なのだろう。

求めることをやめ、作為を企てることを止めることでしか、人は本心に至ることはできない。かくしてこの世界は虚妄と虚構によって出来上がった網のうちに人々を等しく閉じ込めている。そこから自身を開放できることは網に掛かった魚ほどに稀である。

2017年5月19日 (金)

仕事を、ひたすらお客様のことを考えてしているなどと主張する人たちが、日本以外のどこに居ると言うのだろうか

ーー以下「中韓を知りすぎた男ぶろぐコメント欄」より抜粋編集qazx

キリスト教やイスラム教やユダヤ教では、他者の神の存在を許さない。

今日もシリアでは、異神の存在を許さないと主張する人たちが、殺し合いをしています。

外国人は、日本人には到底出来そうもない非道なことを、平然とやってのける。

キリスト教やイスラム教やユダヤ教では、人間の欲望は制御されないということになる。

これらの宗教を信じる限り、世界は滅びるであろうと、自分は予測しています。

人種や宗教の壁を越え、全人類の安寧を目指す思想は、日本にしか存在しないのです。

2015/12/10(木) 20:07:11|  URL|  Skullcrusher707 #tuEXU5AU

ーー

ソロです。

神道とは、民が「天皇の宝」であるときの生き方、人と人との在り方を示しているので在りましょう。

日本人は、本来それが、地球上で成り立つ原理だと考えていました。

それで、支那・朝鮮にも同じ原理で臨んだのでありますが、支那・朝鮮人は、我々とは違っていた。

彼らは、我欲の為に、お互いの生存を脅かすことを躊躇しない人たちであったのです。

また欧米人の共存原理は、彼らと同じ神を信じる者だけに適用される原理であった。

世界のそういった事情が、ネット環境を手に入れることで、ようやく分かるようになった。

ーー

そして、日本人は、キリスト教やイスラム教やユダヤ教と神道とは異次元の存在であることに気づき始めた。

さらには、神道の持つ奥深さに気づきだした、と言えるでしょう。

ーー

英語の宗教religionという言葉自体が、「神と再び結びつける」という原義を持つ言葉であり、他の神を排除する言葉なのです。

これでは、共存・共栄は不可能でありましょう。

神道の、民が「天皇の宝」であるがゆえにお互いを尊重して生きるという生き方こそ、今後人類が共存共栄していくためには、必要になっていくものと確信いたします。

もちろん、ここで日本人にとっては「天皇」でありますが、人類に当てはめれば、「人類共通の祖とでも」置き換えるべきなのかもしれません。

ーー

支那・朝鮮人は、神なき(天皇を推戴しない)人々であり、お互いを生存競争の相手としか認識できない。

それゆえに支那・朝鮮では、皆でおカネを出し合って成り立つ社会保障は機能しないのです。

しかも支那・朝鮮諸国は、次第に信用(法)によって成り立つ近代文明から離れ、武力が支配する人治社会へと先祖帰りしている。

彼らには、神道を理解することなど、不可能なのであります。

2015/12/11(金) 10:44:04|  URL|  ナポレオン・ソロ #90LdKUd6

ーー以下「株式日記toraさんの意見」より抜粋編集qazx

仏教は、インドから支那を経由して日本に伝わったものです。

しかし、インドには、もう仏教(覚者による教え)は無く、支那にも寺院が残るのみです。

ーー

千年以上前に、鮮卑人(唐)が、インドから持ち帰った仏教は、日本人遣唐使によって日本に持ち帰られた。

以来仏教は、1300年以上の間、日本に根付き生き残った。

日本で禅寺の住職をしているドイツ人のネルケ氏は、日本人から日本人の宗教について聞かれて、

「私から見ると、日本人は暮らしのなかで意識しないで宗教を実践しています」

と応えている。

ーー

例えば、日本人は、会社や学校で社員や生徒たちが当たり前であるかのように会社や学校の清掃をする。

これは、ドイツ人であれば、清掃をする人に任した方が、その間社員は仕事ができ、生徒たちは学べるので、良いと考える。

ところが日本人は、職場や学校を、その間、たとえ仕事が出来なくても、また学べなくても自分たちの手できれいにすることは良いことだと考える。

ーー

仏教では、僧に、日常生活の中で修行をするように勧める。

つまり、身の回りの清掃も仏教僧の修行の一つであり、清掃は、仏教僧の習慣が生かされているということに成る。

キリスト教やイスラム教には、悟るという概念が無い。

悟るために、生活の中で整理整頓をし、身ぎれいにするという発想はない。

ーー

考えてみれば、日本人が何気なく、茶を飲み、食事をし、仕事をする時にも、仏教僧が修行しているように見える。

仕事を、ひたすらお客様のことを考えてしているなどと主張する人たちが、日本以外のどこに居ると言うのだろうか。

ーー

この世に生まれた以上、「自分の人生は自分で生きるしかない」のであり、

人は、生老病死の四苦からは逃れられない。
しかも、この世は変化する、人の気持ちまで変わる。

そのような人生を克服するには悟りを得るしかない、とブッダ(覚者)は教えている。

そして悟りは、喜捨、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、知恵の修行から得られる、と。

この最後に位置する知恵(般若)を理解し実戦すれば、すべての苦しみから解放され、悟ることができるのだという。

ーー

このような考えはキリスト教やイスラム教やユダヤ教にはない。

ーー

日本の学校では、今日もそうするのが当たり前だと言わんばかりに、生徒に給食を配らせたり、掃除をさせたりしている。

これは、すべての苦しみから解放されるための知恵を、生徒に気付かせるためなのだろう。

2017年5月18日 (木)

その時白隠の「直指人心、見性成仏」が完成したのであります

宋時代に支那人僧によって、日本に禅が伝えられた。

ーー臨済宗wikipedia

宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(大迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから支那に伝えられた、ということになっている。

その後、臨済宗は、宋時代の支那に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。

日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。師から弟子への悟りの伝達(法嗣、はっす)を重んじる。釈迦を本師釈迦如来大和尚と、ボーディダルマを初祖菩提達磨大師、臨済を宗祖臨済大師と呼ぶ。

同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。とくに室町幕府により保護・管理され、五山十刹が生まれた。

その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。

ーー抜粋ここまで

禅というのは、瞑想を意味するのだが、それがどうして宗教になるのか、西洋人には理解しがたいのではなかろうか。

信じ守るべき教義というものが見えてこないからだ。

例えば、禅宗の一派臨済宗は、「直指人心、見性成仏」と言う。

「直接人の心を目指せば、仏性を発見し覚者(仏)と成る」

瞑想することによって覚者(仏)になれると。

これでは教義にならない、信者が集まらない。

しかし瞑想することによって覚者(仏)になることを目指す僧(修行者)たちがいたのだった。

それが禅宗だということが出来る。

ーー

ーー以下「ねずブログ」より抜粋編集qazx

白隠慧鶴が、まだ修行中の若い頃のことです。

白隠は、もう悟りを得たと思っていました。

そして様々な禅宗のお寺をめぐり、禅僧たちと問答し、打ち勝っていました。

つまり自分の方が深い境地に達していると考えたのでした。

ーー

長野県飯山市にある正受庵を訪ねます。

そこに居る、臨済宗・最長老の道鏡慧端(どうきょうえたん)老師と問答をするためでした。

老僧は、白隠が何を問うても、半眼のまま座り、一言も返さない。

居眠りしているのか。

白隠は、そこで慧端禅師に対して「喝っ!」と大音声を発します。

ーー

すると老師曰く「それは学んで得たものか?自分で見たものか?」と。

白隠答えて申す、「もちろん自分で見たものである」と。

老師「ならば吐き出せ」と。

ーー

学んで得たものなら、学んだ通りに言えば良いのです。

けれど白隠は「自分で見た」と回答しています。

覚者(仏)を「見た」と答えたのです。

だから、その見た「覚者」を説明せよと。

見たのなら、説明できるだろう?というわけです。

ーー

相手は高僧であり、学べることなどほとんど学んでいる。

その老師の前で、「覚者」を説明する以上学べる以外のものである必要がある。

白隠が至っていた境地とは、実は、先輩諸氏から学んだものでしかない。

白隠は、嘔吐を真似るくらいしか手がなくなってしまった。

ーー

老師は言いました。

「お前は自分一人でわかったつもりでいる糞坊主じゃ。ここにいてしばらく叩かれよ」

つまり、ここに居てさらに修行せよ、と。

ーー

白隠は正受庵に滞在し修行します。

ところが老師は、何も教えない。

白隠に作務(さむ、掃除などの労務)をさせ、些細な瑕疵(かし、欠点や欠陥)を見つけては叱り続けました。

ーー

あるとき白隠は、托鉢に出、一軒の家の前で経を唱(とな)えおわり、一礼をして歩きだそうとした時。

息を切らせてやってきた老婆が、一握りの玄米を白隠の頭陀(ずだ)袋に入れ、どうか孫の病気平癒を祈ってほしい、と頼んだ。

自分が悟ることで頭をいっぱいにしていた白隠は、我に返り、一心に老婆の孫のために病魔退散の真言(サンスクリットの呪文)をとなえたのでした。

その日の食べ物を布施してでも、孫を救いたいと願う老婆。

しばらく歩いて振り返るとまだ白隠に合掌している。

白隠は、その時、老婆の食べ物を奪って生きている自分の存在、に気付いたのでした。

うなだれて、寺に戻った白隠に、老師は「汝、徹せり(よくやった)」と言った。

ーー

禅は自分の中の覚者(仏)を見つけ悟ることを目的にするものです。

悟りは知識とは別物なのであります。

白隠は、もう誰をもやりこめるだけの知識を得ていた。

だから、老師のもとを訪れるまで、常に論争に勝ち続けました。

得意の絶頂に居た白隠に、老師は「お前は自分一人でわかったつもりでいる糞坊主じゃ」と言った。

しかし、彼の鼻っ柱をへし折ることは出来なかった。

ーー

老師は、白隠を寺に置き、作務を課し日常生活について事細かく咎(とが)め、叱った。

それでも白隠は折れなかった。

そしてある日、托鉢の先で、孫のために布施する老婆に接して、ようやく彼は、鼻っ柱をへし折られたのです。

その時の白隠の気付き(悟り)を、老師は、「汝、徹せり!(よくやった)」と、白隠の表情ひとつで見ぬいた。

ーー

白隠は、自分が得た境地が、「自分の食べ物を布施する」名もなき老婆の境地にも至ってはいなかったと気づいたのでした。

その時白隠の「直指人心、見性成仏」が完成したのであります。

2017年5月17日 (水)

東京地検が「現状は外患罪適用下にある」ことを認めた

ーー以下渡邉哲也Twitterより抜粋編集

テロとの戦いは過去のG7声明、国連の安保理決議などに明記されている話である。

2008年以降、拘束力のある安保理決議などに合わせ、テロとの戦いが強化され、金融活動作業部会(FATF)の持つ役割が拡大された。

FATFはテロリストを資金面から締め上げる組織だ。

FATFは、各国の「テロとの戦い」の実施内容をチェックし、段階的に最低限守るべき内容を順守するように命じている。

ーー

組織犯罪を防止する目的で作られたのがパレルモ条約なのである。

日本は、様々な条約の締約国として多国間に対応する義務を負う。

しかしながら、パレルモ条約を、日本はまだ締結できていない。

共謀罪が無かったからだ。

ーー

日本には人身売買や詐欺などなどに対する共謀罪がなかった。

これらを犯罪とし、関係者全員を処罰するためには、共謀罪が必要になる。

共謀罪がなければテロリストに資金提供する組織を締め上げることはできない。

ーー

国際社会から与えられたFATFの機能はテロ資金の締め上げだ。

制裁は、たとえばBNPパリバの場合、米当局に払った罰金1兆円 +1年間のドル決済禁止。

下手すればメガバンクさえ潰れる。

それで日本は、2014年に国際テロへの資金提供を止めるためテロ三法を成立させた。

が、これでも共謀者全員を処罰することはできない(穴があった)。

つまり組織犯罪を犯罪とするためには共謀罪が必要になる。

共謀罪がない日本は、パレルモ条約が締結できないのだ。

ーー

FATFは2008年に対日報告書を出し、その中で共謀罪を制定しなければ制裁を科すと警告している。

ーー

共謀罪が制定されても、犯罪組織やテロ組織に関与していなければ、何の問題もない。

普通の生活者は、犯罪組織やテロ組織が摘発されることで、返って安全性が上がる。

しかし日本共産党など共謀罪が制定されるとお困りになる方が多数おいでになるようですね。

ーー

ーー以下「余命ブログ」より抜粋編集

ーー読者「桜」

日本国民は日々法を守り真面目に生きており、日本国を大切に思っている。

その日本国を在日や反日勢力が貶(おとし)め破壊しようとしている。

その事実を知った人たちが証拠をそろえて各地検に外患罪で告訴した。

ところが日本各地の検察は日本国民の告訴は受理しなかった(告訴状を返戻した)。

検察はこれまで在日・反日勢力の告訴については簡単に受理してきたのにです。

もう日本の検察組織は日本国民にとって敵のような存在になっている。

ーー

現在進行形で支那・朝鮮人らは、労働査証(ビザ)をいとも簡単に取得し合法的に国内に入り込んでいる。

怪しい市民団体(日本国民ではない可能性大)の告発はテレビで大々的に放送されている。

国内では、支那・朝鮮人に侵略経路を示すかのように、日本人に全く不明の簡体字や朝鮮字が溢れている。

敵国人らが全ての機関や組織に浸透してやりたい放題している。

もう既にひっくり返せないと思えるくらい活動している。

日本国民こそが在日・反日勢力に情報と政治力を奪われ差別されているのが現状なのです。

ーー

裁きを行う機関が敵側の手にある状況では国体を維持することは不可能だと思います。

標的の確認も何も、こちら側が法を守って行動している限り、彼らは永遠に安泰なのではないでしょうか?

国土防衛の為の法案は毎度骨抜きにされている。

私は共謀罪法案が通ったところで、国内の掃除が進むように全く思えません。

もう自衛隊が出なくてはいけない状況ではないでしょうか。

ーー

物理的に排除するしか日本を綺麗にする道など残っていないと思います。

実際に自衛隊が国体維持の為に国内で展開したら、彼らは逃げまどいますよ。

逃れようと地下に潜っても多勢に無勢で逃げ切れないでしょう。

いくら資金が潤沢にあろうが殲滅される。

ーー

ーー余命

在日や反日勢力は、テロ3法とマイナンバー法で締めつけられて、共謀罪でとどめを刺されようとしている。

(共謀罪が成立すれば、革命を主張している勢力は、合法的には存立できなくなる)

ーー

もうお気づきだと思うが、一連の告発活動は外患罪が現状適用下にあるかどうかが焦点であった。

東京地検の第三次告発の返戻(へんれい)文書では「外患罪は適用下にあらず」という対応であった。

が、第四次告発返戻理由書ではその文言が消えて「外患罪の適用条件を満たさず」と変った。

東京地検が「現状は外患罪適用下にある」ことを認めたのだ。

ーー

これは政府見解と一致する。

ーー

これにより上級検察のレベルで対応したことがわかる。

全国地検がほとんど同じ文言の返戻文となっているのはその結果である。

もう「外患罪は適用下にあらず」には戻れない。

在日や反日勢力は発狂しているはずだ。

共謀罪の成立はほぼ確定しておりいよいよお祭りが始まるな。

安倍総理は策士だよ。

2017年5月16日 (火)

常不軽(じょうふぎょう)菩薩

シュリーマンが、江戸時代末期の日本を見てその文化文明の高さを絶賛しているのだが、何故このような素晴らしい状態が、体系的な宗教無しに成立しているのかと、疑問を呈している。http://qazx.blog.eonet.jp/docdoc/2008/06/post-4e51.html

確かに日本には、数え切れないほどの寺院や神社はある。しかし例えば、仏教について、果たしてそれがどのような教えを持つものなのか、またはバイブルのような、その教えの内容を記した決まった経典があるのかと聞かれても答えられる人は居まい。ましてや神社にはそういった類のものが何も無い。

漢文で書かれている仏典は、普通の日本人が読んでも意味不明なのだから、仏教のバイブルであるとはいえない。そのような状況であるにも関わらず、人々は正直で気品があり清潔で、わずかな数の武士達によって完璧に統治されており、犯罪と言うものが非常に少ないことにシュリーマンは驚愕したというのである。

仏教は各宗派によって教えの内容が違う、という人が居る。しかしそれではどのように違うのかと聞くと、拝み方はこれこれで数珠の形はこうでと、形式については詳しく語れるものの、それ以上の、つまり教えの中身についてはほとんどの信者が何も語れないのだ。

しかも、仏典は多数知られているものの、サンスクリットの原典まで知られるようになった今でも、統一された日本語決定訳は存在しない。仏教徒を自称する人たちが、その教えを知るためには、インド人アンベードカル博士が英文で書いた「覚者の教え THE BUDDHA AND HIS DHAMMA」を読むしかない、というのが、現状なのである。

ところが、そんなことはどうでも良いようなのである。宮沢賢治あるいは、日本人の多くの仏教徒であると主張している人たちは、どういうわけか、その教えを仏典になどほとんど関係なく実践しているのである。知らず知らずのうちに覚者の教えを実行している。恐らくそれが、シュリーマンが、不思議に思い疑問に思ったことであったのだと思われる。

宮沢賢治は、南無一塔両尊四士を掲げている。宮沢賢治は、法華経信者であったのだ。南無とは、帰依する、信じるという意味である。

ーーーーー

クリスチャン・ムスリム・ユダヤが、その経典に王冠をかぶせて尊重するように、法華経は、信者からは宝(たからもの)とされ、宝(法)塔と呼ばれる。ウィキペディアの解説では、法華経信者の本尊(大切なもの)は、一塔両尊四士つまり宝塔を中心に釈迦如来・多宝如来・四菩薩である。

四菩薩は、上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩であり、釈迦如来が説法をしていた際に大地が割れ、そこから涌き出た無数の菩薩を代表する菩薩たちであり、釈迦亡き後の末法の世において「覚者の教え」を護持するものとされている。

また法華経には、常不軽(じょうふぎょう)菩薩が登場する。彼は、ついには大悟し覚者となるのであるが、彼は、常不軽(決して軽んじない)の名が示す通り、「皆さん方を深く敬います」と、誰に対しても、礼拝するように接した。逆に人々は、そんな彼を軽んじ、さらには杖や枝、瓦石で彼を迫害したと記されている。

ーーーーー

1931年秋、東北砕石工場の嘱託として壁材の営業のために上京して病に倒れた宮沢賢治は、花巻の実家に戻って闘病生活をしていた。その時賢治は、黒い手帳にその当時の願望や自省を書き綴っていた。

今日この手帳は、研究者からは「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれている。有名な「雨ニモマケズ」が、この手帳から見つかったからだ。青鉛筆で「11.3」と書き込まれていることから、「雨ニモマケズ」は、1931年11月3日に書かれたものと考えられている。

この手帳が発見されたのは、賢治が亡くなった翌1934年2月16日に東京・新宿で開催された「宮沢賢治友の会」の席上である。賢治の弟・宮沢清六が招かれており、賢治が壁材の営業でも使っていた、遺品の大きな革トランクを持参していた。席上、参加者の誰かが、この革トランクの中から、この黒い手帳を見つけ出したのである。

ーーーーー

さてそれでは、宮沢賢治は、どれ程、「覚者の教え」を実行しえたのか。それは、「雨ニモマケズ」に明らかである。その素晴らしい宮沢賢治の実践の内容をお目に掛ける。

慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ(苦にもされず)

これは正に、常不軽菩薩そのものである。それでは全文をお楽しみください。

ーーーーー

雨ニモマケズ
風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ(よく見聞きし分かり)
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ(日照りで不作のとき)
サムサノナツハオロオロアルキ(冷害の夏)

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

ーーーーー

宮澤賢治

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html

2017年5月15日 (月)

「四苦八苦」は、大金持ちにも、権力者にも、すべての人に平等に訪れ、誰もそれから逃れることができない

ーー以下「鈴木傾城ブログ」より抜粋編集qazx

18世紀の産業革命で蒸気機関を動力とする新しい産業がまずイギリスで、そして欧州・米国ついで日本で起こる。

以来、産業を起こす企業家、そして産業に投資する資本家が、膨大な富を手にすることとなった。

一方に、企業を起こす才覚もなく、また投資する資産も持たない大勢の無産階級の人々が出現した。

19世紀末には、富の格差は社会問題化し、生産手段を政治的に共有すべしと主張するものが出現する。

そして生産手段を共有せよと主張する政治勢力が政権を取った。

それら諸国は、例外なく独裁政権となり、独裁者が国民から富を奪いとるような事態が出現し、格差は解消できなかったのだった。

ーー

今も共産支那の独裁者たちは、国家予算規模の国富を簒奪している。

つまり、もう所得格差を共産革命で解決することは出来ないということを人類は学習したのだ。

ーー

いま、米国のヘッジファンド業者上位25人の年収は、一人当たり2千~5千億円と言われている。

一方で、人・物・カネの国境をなくすことで、先進国労働者の所得が増えない事態が出現した。

先進諸国では、中産階級の所得減による不満が国境をむしろ高くせよと言う議論を生んでいる。

これには、人工知能の出現による労働環境の変化に対応すべきだ、「移民を入れてはいけない」という議論も含まれている。

ーー

しかしこのような議論がなされている格差環境というのははむしろ恵まれていると言うべきなのである。

ーー

例えば、インドでは有名なカースト制がある。

カースト制はいわば、ヒンドゥー教が生み出した階級差別文化なのだ。

日本人は「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」と考えてきた。

そんな考えはインドでは通用しないということだ。

インド人は階級差別を意識して自分は他階級とは違うと考えて暮らしている。

ーー以下wikipediaより

カースト(英語: Caste)とは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナとジャーティ)を指すポルトガル語、英語である。

インドでは現在も「カースト」でなくヴァルナとジャーテと呼ぶ。

紀元前13世紀頃に、バラモン教の枠組みがつくられ、その後、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に大きく分けられるヴァルナとし定着した。

現実の内婚集団であるジャーティもカースト制度に含まれる。

カーストという単語はもとポルトガル語で「血統」を表す語「カスタ」(casta)である。

ラテン語の「カストゥス」(castus、純粋なもの、混ざってはならないもの、転じて純血)に起源をもつ。

ーー抜粋引用ここまで

多くのインド人たちは自分たちの階層内で暮らしており、他の階層にある人など見ないし、関心もないということになる。

ーー

それでは、カースト制度のある社会とはどのようなものなのか。

例えば、他のカーストのインド人からは、人間扱いされない「不可触選民」として生まれたとしたら。

その生き方とはどのようなものになるのだろうか。

ーー

それを鈴木傾城さんが書いている。

ーー

インドのスラム売春地帯でひとりの女性に出会った。

彼女は「不可触選民」の女性だった。

スラムで売春ビジネスをしているインド人の多くが低階層の人々である。

彼らは他の階層から人間扱いされないために他の仕事に就くことができないのだ。

彼女に「あなたの宗教は何?」と聞かれたことがあった。

そして彼女は自分は仏教徒だと言ったのだった。

ーー

インドに仏教を広めたのは、インド国旗の中心部に法輪をデザインした、アンベードカル博士だった。

ーー以下wikipediaより

ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar、भीमराव रामजी अंबेडकर、1891年4月14日 - 1956年12月6日)は、インドの政治家(ネルー内閣の法務大臣)、思想家。

インド憲法の草案作成者、反カースト(不可触賎民〈ダリット〉改革)運動の指導者。

インド中部のマディヤ・プラデーシュ州のマウー出身、ヒンドゥー社会のカースト制度の最下層、アンタッチャブルあるいはダリットとして知られる層に属する両親のもと14人兄弟の末っ子として生まれた。

彼はカースト制度による身分差別の因習を打破するため、死の2か月前に約50万人の人々と共に仏教に集団改宗し、インドにおける仏教復興運動を始めたことで知られている

ーー抜粋引用ここまで

アンベートカル氏は、自著「覚者とその教え」の中で、覚者(ブッダ)の悟りの中身を書いている。

(ブッダは漢字音表示は仏陀、サンスクリット語の意味は、覚者である)

ーー以下qazxブログより抜粋

それが覚者の三法、三つの教えである。
1、人生は、苦しみである。永遠に満たされないものだ。
2、全てのものは変化する。変わらないものは無い。
3、自分と言う存在は幻覚である。この世界も幻覚である。

覚者は、「苦しみの原因となっているものは、幻覚なのである。苦しみから逃れる唯一の方法は、自分と自分が知覚している世界が実在すると信じるのをやめることだ」という。

ーー抜粋引用ここまで

覚者は、人の一生は、四苦(生老病死)八苦(生・老・病・死・別・憎・不足・痛)することだという。

仏教は、そうした人の一生をどう生きるべきかを教える。

貧富の格差は無くならない。

しかし、貧富の差など、人の四苦八苦の前には霞んでしまうほどのものだ。

「四苦八苦」は、大金持ちにも、権力者にも、すべての人に平等に訪れ、誰もそれから逃れることができない。

覚者はそれ故に、ともに慈(いつく)しみあい、ともに悲しみ、ともに喜び、互いに悪意を捨てて生きよ、という。

ーー

ひとりの貧しいインド女性が苦界に身を沈めながら「仏教を信じている」と私(鈴木)に言った。

そうなのだ、ひとは、誰一人として、「四苦八苦」する運命から逃れることはできないのだ。

人類の平等はこうした「四苦八苦」する運命の中にこそある。

ーー

しかしそれと分かるのはなかなか難しい。

インドでは、それゆえ仏教徒ではなく、アラー(神)の下の平等を信じるイスラム教徒が増え続けているのだと言う。

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